romantic authorship

創造性というかクリエイタが偉いという信仰めいたものがなぜ出てきたかという話を、先日茶会でしました。白田先生によると、このロマンチック・オーサーシップは出版に端を発しているらしいです。


聖書はグーテンベルクのおかげで出版できるようになり世に流布していったわけですが、その際宗教的に権威をもったコンテンツと同じ媒体で流通していた、というそれだけで文芸もなんだか権威のあるもののように誤解されてしまった、というわけ。


もちろんロゴス的、ラング的あるいはエリクチュール的なものの方を高く評価する文化傾向もあったでしょう。でもアラビアンナイトとか琵琶法師を見れば分かるとおり、パロール的なものを評価すると思しきところでも、吟遊詩人が尊ばれるのは、彼ら自身の詠唱のテクニックやすばらしい記憶力のためではなく、彼らの吟ずるサーガなどを高く評価しているからです。そうした「詠み人知らず」的に織り込まれた大きな物語は、もちろん、ロマンチック・オーサーシップの枠外ですね。


もうひとつ理由を挙げるなら、ハリウッド的な褒めあいに理由があるのかもしれません。出版が一般的になってきた1860年代にはたくさんの文豪が現れましたが、彼らはお互い褒めあったといいます。それで読者をがんがん洗脳していったというわけですね。


またクリエイタと消費者が分断していったのも同時期であることに注目すべきでしょう。どんな分野でも専任の事業者が現れてキャズムをこえるようになると、2層にわかれるものです。その後、本を出すときのコストが払える人は選ばれた者、ということになりさらにクリエイタ信仰が強化されたのかもしれません。


でもよくある議論ではありますが、本を出すというかコンテンツをメディアもしくはコンテナにのせるコストはwebによって大幅に下がってしまいました。敷居が低くなったとき目指すべきなのはメディアの消滅なのでしょうが、けれどもこれはまた別の話、いつかまた、別のときにはなすことにしましょう。




【追記】
id:cedさんが指摘してくれましたが、印刷メディアそれ自体が思考様式を規定してしまった、という話もあるそうです。詳しくはcedさんの読書録であるライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュールをご覧ください。