中古店、特に新古書店を正当化する論拠は何だろう?

知的財産である書籍やCDなどの中古品を転売しても良いのは、譲渡権が消尽することが条文により規定されているからです。原作品または複製物が譲渡された時点で、この譲渡権が消尽すると定めています*1。権利者が知的財産権を一度行使することによって、その物については目的を達成して権利が尽きたとされ、権利者がもう一度知的財産権を行使することはできません。とても荒っぽい言い換えをすると、一度お金を取ったら二重取り三重取りはできませんよ、というものです。

でも、この根拠となる理論がつきつめていくとよくわからないのではないか、という話が金曜日にゼミでありました。一応今のところ説明できるのは、問屋から店子へ卸されていくときに、いちいち許諾を取っていたのでは流通が阻害されてしまうということくらいなのです*2。でも、たとえば、レンタルCD屋さんは権利者側へ「貸与使用料」を支払っているのですが、同じ知的財産を扱う中古屋さんが補償金を払っていない理由を条文を使わずに正当化する説明が、私にはできませんでした。中古店の存在はどのようにして法的に正当化できるでしょうか?今回はこのことについて少し考えてみたいと思います。

このエントリを書くきっかけは、森博嗣さんの

中古販売自体は、僕はそれほど問題だとは考えていない。どんなものにも中古品市場はある。販売してはいけない、という道理はないだろう。それでも、「著作権」というものがあるわけで、たとえば、ただで譲ってもらったから、あるいは拾ったから、という理由で破格で売ることは、どうも変な気がする。中古品でも売るときには、コンテンツに対する著作権料を支払うのが道理ではないだろうか。図書館などで、貸し出す場合も例外とは思えない。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/05/post_1142.php

という記述に対して旅烏さんが

中古商品の流通に関しては「譲渡権」というものが関わってくる。言ってみれば、著作物商品を流通させる権利だ。本、CD、DVDなどでは、小売からお客さんへ販売した時点で、著作権者の持つ譲渡権は消えてなくなる。それを中古商材からもお金を取れるようにしようと思うと、「消尽しない譲渡権」という、世界でも例を見ない新たな権利の創設が必要となる。

http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20070512

と答えていらっしゃいましたが、法律でそう決まっている、という以外の論拠をなにか提示しないと、森さんのような問題意識を持つ方に納得してもらえないのではないかと考えたからでもあります。私は古書店にも新古書店にすごくお世話になっていますし、「BOOK・OFFを肯定する」という記事に共感するので、なんとか論理的な後ろ盾をしたいと思います。

よくある勘違い

まず、売主から買主である中古店に所有権が渡っているだけだから、売り主が文句を言うのは取引安全を害するのではないか、という考えがあるかもしれません。でも中古書店は古紙販売業ではありません*3。なぜなら所有権と著作権などの知的財産権は別物だからです。
私たちは本という綴じられた紙束自体はもちろん所有していますが、本に書かれた内容は著作者のものなのです。小難しい言い方をすれば、所有権は所有物を客体とし、知的財産権は知的財産を客体とするです。つまり住み分けが出来てるということです。以上は前提となる知識ですね。
そしてこれは、ユーザの権利を前面に押し出すのはかなり難しいということでもあります。

希少財として考えてみる

絶版になってしまった本、あるいは以前の版がほしい場合があります。また、廃盤になってしまったレコードやとても希少なCDもありますね。これらは新品市場だけでは入手できません。よって、中古店の存在が必要となってくるわけですが…。
でもこれは補助的な理由付けにとどまります。なぜなら、これだとレンタルCD屋さんが権利者へ支払う「貸与使用料」のような補償金を払わなくても良い、つまり権利消尽の直接の理由にはならないからです。

宣伝の投資として考えてみる

min2-flyさんは「図書館に入ってなければ今でも購読していないか、していたとしても読みはじめるまでにさらに時間を要していた」作家さんがいることを述べた上で以下のようにおっしゃっています。

なんつーか、中古販売や図書館に文句をつけてくる出版・著作業界の人って、中古販売や図書館がなくなればそれが自分たちの売り上げに直接つながると勘違いしてるんじゃないだろうか?
言っちゃなんだが、min2-flyにとって図書館で借りる本ってのは「買ってまで読もうとは思わない本」だし、そう考えてる人ってけっこういると思う。

http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20070512/1178968237

つまり宣伝効果を見込んだ投資と思えば安いという考えです。このことは図書館のみならず中古店にも援用できそうですね。しかし、やはり権利消尽の直接の理由にはなりません。

コストから考えてみる

さて、著作権侵害というのは親告罪であり、著作権者が望まなければ犯罪とされません。となると、侵害状況などを基本的に自分でモニターしなければならないわけです。もちろん著作権を管理する団体が代行することもありますが、監視にかかるコストはやはりかかります。自分の作品が二次的に売られたりするわけですが、ここからお金をとるためには、著作者あるいは管理団体が監視しなければなりません。
そこで、コストばかりかかってそんなに実質的にお金がとれそうにないので、遡及する権利を認めず、またそのような紛争がたくさん起こりすぎると取引安全が図れないので、あらかじめ、新品市場から中古市場に流れることを踏まえ、著作権者は最初の価格付けをするような制度をとった、というのはどうでしょうか。これなら権利が消尽する説明になりそうです。

適用しきれない部分

以上のような理由付けで正当化できても、まだ考慮しなくてはならない否定的要素はあります。中古品の購入の簡便化です。すなわち、どの程度簡単に買えるのかという問題です。
中古市場で簡単に買えるのなら、中古は価格が安いので、新品を買う人は相対的に少なくなってしまいます。最近は明らかに簡単に買えるようになってきています。ブックオフ、アマゾンユーズドなどです。しかし消尽を認めているのは中古が簡単に買えないというのが前提になっていると考えることができます。「中古は探すのが大変」「中古は古びている」などが前提になれば、中古市場から得るお金は発散しない、と言えたのではないでしょうか。

「発散しない」とはどういうことでしょう。たとえば、新品で1000円で売るとすると、中古が900円で売られ、さらに中古が800円で、700円で…とどんどん減少すれば、この数列の和はいつかは収束します。しかしずっと1000円のままでサーチコストもかからなければ、1000n円(nは無限)になってしまいます。この場合、価格も無限大になりますね。ですから新品の価格付けが原理的に出来ません。無限等比級数の和とか言うらしいです…。数をどんどん足していくとき、あるルールにのっとって足していく数を少しずつ減らしていくと、足す数の最後の項は無限に0に近づきます。ですから、この数字の列を全部足したものは、ある数字になるわけです。無限に足してるわけですが一定の値になって収束します。
中古市場で本が出回るごとに、それを探す手間とか本が汚れるとか、そういう風にして少しずつ価値が失われていくと言えるなら、最初に中古市場も考慮にいれて本の価格を1+0.9+0.8+0.7+...と付けることができます、可能性としては*4。ところが、全く価値が毀損されないなら、1+1+1+1+1+1+1+...となって無限大になってしまいます。
昔は常識として、ごく少数の例外を除き、価値がどんどん減っていくのは当たり前でした。古本を探すとなれば神田へ行かなきゃいけなかったり、見付かっても高かったり汚かったりしましたし。でも、現在は著作物の有体物的性格が薄れてきて無体物的性格が相対的に強くなってきていると言えます。よって、いちから考え直すとなると消尽理論を適用しきれなくなってしまう部分もあると思うのですが、皆さんはどう思うでしょうか?

うーん。確かにユーザにとって中古店はすごくありがたいのですが…でも新しい本が出版されなくなったりしたら元も子もないしなあ…。難しい…。このあたりの逡巡については「もう一つの著作権の話」が一番わかりやすいでしょう。

*1:著26条の2、2項

*2:特許権であれば「特許権者が製造販売した特許製品であっても、その使用や転売には一々特許権者の許諾が必要となる。特許権者によって適正に製造販売された特許製品の使用や転売に際して許諾という煩雑な手続を要求することは、特許製品の利用や商取引の妨げとなり、不合理」ということで消尽理論が要請される。wikipediaの消尽の項目を参照

*3:本をリサイクルする、という意味では合ってるかもしれませんが…

*4:新品が1円、最初に中古で売られると0.9円…ということです