判例・引用・tumblr

で以前書いたことを若干追記しつつ、repostしてみる。

tumblr.の過去の投稿に遡って、いわゆる「引用」の条件を満たすように修正しようとしているんだけど、地道な作業で死にたくなってきた。

neodenjin

たぶんそれは「いわゆる「引用」の条件を満たす」という用語の使い方が間違っている。正確には「おれにとって悪質ではないように修正する」ぐらいの表現では?(neodenjin tumblrの過去ログが本当に「いわゆる「引用」の条件を満たす」ように、主従関係やその画像等を引用する必然性などを満たすようにしている。というのなら、このオレの指摘は的外れです。ごめんなさい。でもそれは現実的に無理な気がするから、そうじゃないよね?)

otsune

ああー。近時の学説だと「条文上、主従要件なんて読めないじゃねーか!」という考えもあるんだよな(上野達弘「引用をめぐる要件論の再構成」『著作権法民法の現代的課題』半田正夫先生古稀記念論文集 2003年 法学書院*1

著作権法32条1項の規定は、判例上ものすごく厳格に解釈されていたけれど、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」としか書いていない。

そもそも文言に合致しないし、 しかも理論的根拠があるかどうかも疑わしいと思う*2

田村先生はもっと踏み込んでいて「ネット・オークションに出品するとき、自分の所有する絵画のサムネイル表示*3も適法な引用となりうるのだー!」とおっしゃっている(田村善之「絵画のオークション・サイトへの絵画の掲載と著作権法知財管理56巻9号1370頁 2006年)。これは、結論の妥当性は別として、文言解釈からすればかなり無理のあるものだと私は思うけれど・・・*4

さて、話を戻そう。もしneodenjinさんが、(判例とか要件論とかを知らずにいて)条文だけ見て「いわゆる『引用』の条件を満たすように修正」しようとしているのであったら、それはそれで理のある行動だ。さらに上記学説を支持する人であれば、「用語の使い方が間違っている」と言われる筋合いはないだろう。

引用の要件としてよく挙げられている必然性、主従性、明瞭区別性やなんかは、条文には書いていなくて、判例が長い時間をかけて築き上げていったものだ。それはそれでとても大切だし尊重すべきだ(少なくとも私が弁護士でアドバイスするならクライアントに対して判例に言う要件を厳守するように言い渡すだろう)。

でも、それは絶対確実な「用語の使い方」じゃない。法全般に言えることだけれど、みんなの規範意識や社会情勢が変化すれば(あるいは学会の動向なんかも関係して)、判例だって要件や規範を変える(判例変更と呼ばれる)。法律学をやってない人にしれみれば、ちょっと意外なことかも知れないけど、結構判例変更ってたくさんあるんだよね。ゆっくりゆっくりではあるけれど、法律の解釈は社会に合わせて変わっていく(もちろん法律自体も改正されたりする)*5

tumblr.とかその他ウェブ・サービスは、ゆるやかに人の規範意識に影響を及ぼしていると思う。そこで規範意識がどう変わっていくのか、私はすごく興味がある。

現在認められている(主流どころと思われている)規範からはみだすと違法性が高いし、場合によっては民事上あるいは刑事上何らかの責任を問われることもあるから、あぶなっかしい。でも規範意識って要は考え方のことだから、まあそんなにがんじがらめになるのも良くないと思うんだよね。


「法の条文には書いてないが判例でそうなってる」ってのは「RFCで明記してないけど、まともな実装ならこういう慣習を守る」ぐらいの意味か。そして法律用語の「判例変更」は「世間の状況が変わったんで慣習変えようぜ」ぐらいのニュアンスか。 lang:ja

otsune

第一文について、これは実態としてはNoだ。

「まともな実装」として想定されている慣習を破ってまともじゃない実装をしたとしても、顰蹙を買ってコミュニティ内での評価が下がったり、誰にも利用してもらえなくなる程度だと思う(違うかな?)。でも、法的紛争だとそれだけじゃすまないことも多い。だから「少なくとも私が弁護士でアドバイスするならクライアントに対して判例に言う要件を厳守するように言い渡すだろう」とか、判例に従うことの重要性は強調していたつもり。

裁判所の判断というのは、先に下された判決に拘束されがちだ(先例拘束性という)。そして裁判で自分の言い分が通らないということは、刑務所に送られたり損害賠償を払ったりしなくちゃいけないかもしれないということを意味する(前科者のスティグマだってかなりのものだ)。確かに、英米法系の国と大陸法系の国とでは、拘束のされ具合が違うけれど(前者の方が拘束性が高くて、後者は比較的ゆるやか。ちなみに英米法と大陸法については昔解説記事を書いたことがあるから、何なのかようわからんというひとは私のブログのエントリでも参照してみてくれ)。

さて、なんで先例拘束性なんてものがあるのだろうか。裁判官は、先輩とか上司にあたる裁判官の判断に従うんじゃなくて、法と自己の良心にのみ基づいて判断すべきなんじゃないか(裁判官の独立性の問題)。

でもね、ちょっと考えてみてほしいんだけど、以前の似たような事例の判決で良しとされていたことが急にダメって言われたりしたら、裁判で負けた側は納得しにくくなるよね。だって、大丈夫だと思って行動していたのに急にダメって言われるんだから(予測可能性を害する、といわれる状況)。あるいは、Aという裁判官の判断とBという裁判官の判断が異なっていて、A裁判官の法廷なら勝てたのにB裁判官だからだめだった、となったらやっぱり納得しにくくなくなると思う。これは、法令の遵守をしてもらうには困ったことだ。だって、法律って言うのは一応大多数の人が納得している決まりなのだという建前があるからね。

最高裁において従来の判例を変更する場合は大法廷っていう最高裁判所裁判官全員集合な法廷が開くことが定められている(裁判所法 10条3号)。裏から言えば、大陸法系といわれる日本法にも判例拘束性があるし、「せっぱつまったよっぽどの事態」じゃなければ判例変更はされないということだ(ちなみに、同一の事件における地方裁判所とか下級審での判断を最高裁判所がひっくり返すのは判例変更じゃない。原審の判断を破棄するというやつだ)。

そういうわけで、裁判所はなるべく判例変更したくない。だからいろいろな手段を使ってそれを回避する(もちろん保身というか自分の査定に響くからって理由もあるし、裁判官になる人はもともと保守的な傾向があるという理由もあるらしい)(これはこれでとても面白いんだけど、ちょっと長くなるかもしれないから今度説明することにしよう)。

ただし、判例(先例)は制定法(普通の国会を通った法律)より効力は下だ。だからこそ「条文ではそう書いてないじゃないか」という批判が、とても有力な批判となりうる。学者が判例をけなすときは、この手が結構使われたりする(もちろん学説同士の争いでも)。

判例変更というのは、だから裁判所にとってもかなり重たい決断だ。でもないわけじゃない。
第二文の慣習と判例の関係は、また別の話になってしまうから、今じゃなくてあとで書くことにしよう。





上の方で語ったのは要するに、判例は少なくとも実務ではかなりの権威があって、その規範はなかなか変化しない(けれど変更されないわけではない、ゆっくりゆっくり変わっていく)という話だった。

今回は慣習と法と判例の関係について話そう。

さて、あなたは「法源」という言葉を聞いたことがあるかな?聞いたことなんかなくても、漢字から想像できる範囲でだいたい合っていると思う。つまり、さしあたっては法の源泉、というくらいの意味(英語で言うとsource)。しかしもっと詳しく切り分けて分類すると、以下のようになると言われている。

1. 法を生み出して、その内容を制約する源泉。例えば、自然秩序(Lessigの言うところのアーキテクチャだと思ってくれても良い)、社会の諸条件、政治権力、世論やなんか。
2. 法の成立をもたらす社会的事実。例えば、慣習や判例、道徳などなど。
3. 「資料」や「文書」から法が見出されるようなもの。例えば、制定法や慣習法、判例法、条約など(実定法で言うところの法源。実定法については、ぐぐってもらうか以前書いた解説記事などを参照してほしい)。
4. 裁判所が事件の解決に当たって資料として採用できるもの

で、今回スポットを当てたいのは3番目。

日本は成文法主義というのをとっていて、あらかじめきっちり文章化されているものを、とても尊重することにしている。皆がイメージする「法律」…曲がりなりにも民主主義的に両院を通過して出来たとされるあの文章群を、第一義的な法源としているということだ(もちろん憲法や各種条約やなんかも第一義的法源に含まれる)。

でも、英米法系の国ではそうじゃなくて(日本は大陸法系)、判例と慣習法が最重要視される。判例は(過去の)裁判所の判断。慣習法というのは、いわゆる社会の習わしが、単なる習わしとしての効力をこえて、国家権力による強制力を持つに至ったもののことを言う。

ここで、ちょっと面白い寓話を紹介しよう。日本の法律家は物事を捉えるとき、「鉄は沈み、木の葉は浮く」と思考する。でもアメリカの法律家は「沈むのは鉄、浮くのは葉」と把握する、という。これは、英米法系の人たちが実践や経験の中から真実を見出そうとする傾向があるのに対し、大陸法系の人たちは定義から真実を引き出そうとする傾向があるということを示すお話である。

大陸法は、上の分類で言うと、3番目を一番重視していて、英米法もやっぱり3番目を重視しているけれど、どちらかというとそれは2番目に寄っている。こうした違いから、手続法と実体法へのスタンスの差が生じるわけだけど、これはまた別の話だね。

そういうわけで、日本では慣習っていうのは裁判上(法律学上も)、あまり重視されない。でも全然参考にされないわけじゃなくて、特定の場合…というか制定法だけだと困った結論になってしまうときには慣習も法源となって判断材料にされる。

でも、法律や判例や慣習法を駆使していても判断に困るときはある。法に欠缺や間隙があるときだ。そういうときでも裁判官は裁判を拒否することは出来ないから、その隙間は「条理」とか言われる「ものの道理」によってうめられ、判断されることになる。

何が言いたかったかと言うと…法律学では「条文」と「判例」と「慣習」と「条理」はそれぞれ別のものとして取り扱われていて、しかもプライオリティも違ってくるということだ。





以前延々議論していて、何かかみ合ってないなと思ったら、相手が特別法と一般法という概念を知らなかった、ということがあった。著作権の話をするにしても、著作権法だけを知っていれば良いわけじゃなくて民法も知らないと肝心なところでずれてしまったりする*6
著作権法のテキストなどは、こういう背景知識がすっとばされて(知っているものとして)記述されていることが多々あるので、注意が必要だ*7


そして、知っておいて欲しいのは、法律学というものは、条文を丸覚えするような学問でも、判例をどれくらい知っているかを競うものでも(本来的には)ないということだ。法律学は、ごちゃごちゃした事件から注目すべき事実を抽出し、自分なりに整理した事実を条文にあてはめて結論を下し、もし理屈の上での結論が妥当性を欠くような(非常識的な、納得できない)ものだったら、何とか条文を使いながら辻褄を合わせるよう頭をひねるというものなのである*8。だから「条文」と「判例」と「慣習」と「条理」の優先順位に注意しなければならないということになる。
最後に、法律を一から勉強したくなった人に、とりあえず弥永先生の『法律学習マニュアル 第2版補訂版』を薦めておきましょう。

*1:このほかに、というか先行研究として、飯村敏明「裁判例における引用の基準について」著作権研究26号 2000年

*2:より正確に指摘すると、明瞭区別性と主従性(附従性)は法32条1項の条文のどこに入るのかはっきりしない。「公正な慣行に合致」という評価として出てくる話なのか、それとも「目的上正当な範囲内」という評価として出てきているのか、判例は明らかにしてくれていない

*3:事の発端は2006年に横浜市が差押えたものを競売にかけるとき、ネットのオークションを利用しようとしたところ、そのなかに絵画が含まれていたために著作権の侵害にあたるのではないかとの指摘があったことにある。事件そのものは取り下げで終わってしまったわけだけど、著作権界隈はこの件に大いに刺激され、様々な議論を呼んだ

*4:「引用」と言うときにまず思い浮かべるのが研究や批評としてのものだと思う。そうであるとすれば、ネット・オークションのサムネイル表示まで引用の範囲に含めるのは文言的に辛いだろう。たぶん、だからこそ著作権審議会でも改正案として話し合われていたのだと思う。でも導入は流れたちゃったんだっけ?

*5:判例変更とそれにともなう法改正の例として最も有名なものは何だろう?個人的には、公法分野になってしまうけれど、「尊属殺」(旧刑法200条)かなあ…。かつては自分の直系尊属(親とか祖父母とかね)を故意をもって殺害することは、一般の殺人罪よりも重く処罰されていた。でも1973年に最高裁法の下の平等に反するとして違憲判決を下し、1995年の刑法改正で200条は削除された。ところで、この違憲と判断されたケースは、判例を読んでいただければわかるのだが、何というかとても酷いケースだ。特異な背景があるので、私は加害者に同情的になってしまう。法の下の平等に反するということをおいて置くとしても、尊属殺だからって加重的に処罰するのはどうよ、と思えるケースだ

*6:もちろん意匠法や特許法不正競争防止法なんかも知っておいた方が話しやすいし、各種外国法なんかも考慮に入れられれば素晴らしい

*7:想定読者たる法学部生ないし院生は、知的財産法を学習する前に、六法の講義は受けているものとされる

*8:そして最終的に、考え方や価値観の問題となってしまうから「学説の対立」なんていう自然科学の分野ではあまり見られないことがしばしば発生することになる。でも対立しているように見えても、ルート(考え方の筋道)が違うだけで落としどころは同じだったりすることが多々ある。まあ、そこが醍醐味らしいんだけど…