引用の制度趣旨は表現の自由の実質的確保である

「分け入つても分け入つても本の山」のYonda?氏は以下のように述べていらっしゃいます。

引用にご大層な権利が与えられるのか心情的に理解できない。
引用というのは、そもそも表現がなければできないことなのである。
主従関係でいえば表現は主、引用は従でしかない。
だのに、表現は自由、引用は権利なのだろうか。

http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1540.html

私は利用者が便益享受を要求することはできないという意味で引用は「権利」とまでは言えないと思いますが、表現の自由と引用の自由は対比されるべきものではなく、両者は一体ないし引用は表現の自由の一側面であるとの立場をとります。

引用は著作権法の制限規定による

まずは引用そのものについてですが、著作権法上の引用は、法文により明らかにされた要件に従う場合にのみ著作権が制限され、認められます。詳細は以下のようになります。(1)公表著作物の引用であり、(2)引用が公正な慣行に合致し、(3)引用の目的上正当な範囲内で行うこと(以上32条1項)、そして(4)出所明示(48条)をすることです。さらに第2・第3要件については、判例の見解によると、明瞭区別性と附従性によって判断されることになります*1。明瞭区別性とは被引用物と引用著作物の明確な区別のことを言い、前後を1行ずつ空けて1段下げて表記する、鉤括弧でくくる、blockquoteを使うなどの対応が考えられます。附従性は、引用著作物が主、被引用著作物が従の関係にあることを指し、主従関係は質および量の観点から総合的に判断されます。

したがって、私も以前から、とても残念なことではありますが、ユーザーは私的複製や引用を行う権利を有しているわけではないと考えていました。権利制限規定は著作権の例外にすぎないから「権利」ではないと述べてきたのです。
しかし、利用者は全く同様に「法的に保護された利益」を享受しているのです。なぜなら法は、著作(権)者の支配権を制限し、権利が制限されるものとして掲げられた行為を公衆が行うことを明示的に許容しているからです(この言い回しは、パリ控訴院第4法廷2005年4月22日判決を参考にしたもの*2。Perquin c/ Sté Universal Pictures Video France : JCP G 2005 II 10126)。

著作権は「著作物の利用にともなう財産的利益を守るための権利」である

なぜ法が著作権を制限したのかという問題の前に、前提事実の共有として、狭義の著作権は「著作物の利用にともなう財産的利益を守るための権利」を指すことを確認しておきたいと思います。日常的な意味で使われる(あるいは旧著作権法やドイツの一部学説で主張される範囲での)著作権という語は、「利用にともなう著作者の精神的利益を守るための権利」たる著作者人格権と狭義の著作権の両方を包含しますが、以下では現行法に合わせて著作権著作者人格権を峻別する立場を取ることにします。

引用は財産権と表現の自由との調整原理を反映する

さて、著作権は財産的利益を守るためのものだと述べました。32条1項の引用に関する規定は、実のところ、学問の自由や表現の自由著作権者の財産的利益を調整するためにあるのです。仮に引用が認められないとすると、著作権者は自分に都合の悪い批評や研究を権利行使(差止請求等)によって封じることが可能となってしまいます。これでは法の潜脱によって、表現の自由が過度に損なわれかねません。
そのため著作権法は、公表された著作物を、公正な慣行に合致し、報道・批評・研究その他の目的上正当な範囲内であれば引用してよいと認めたのです(32条ベルヌ条約10条)。


以上が32条1項の制度趣旨であり、財産権と表現の自由との調整原理を反映したものだということがおわかりいただけたかと思います。したがって、自己の著作物からの引用を削除するよう主張するということは、「財産的利益を守るための権利」たる著作権を根拠とした請求であると法的には構成されるのです。

Yonda?さんはおそらく心情的あるいは倫理的理由から本件引用箇所の削除を請求されたのだと推察します。でももし裁判であれば、著作権に基づいて差止請求をするという構成になっていたでしょう。そして引用の適否判断を通じて著作権表現の自由との利益衡量がされることになります。

引用は「権利」ではないが、尊重すべき法的利益である

著作権法は引用の実益を重視し、以って表現の自由や学問の自由を確保するよう努めています。利用者は権利制限規定の便益享受を要求することはできません。そうした意味で、引用は「権利」ということはできないものかもしれません。しかし、権利者は、引用を行う利用者の正当な利益を無視しない義務を負うと言えると私は考えます。
上記の理由から、私は表現の自由と引用の自由は相対するものとして比較するべきものではないとの立場をとります。


もちろん、これも考え方や価値観次第です。著作権法から上記とは別の価値体系を引き出すことも自由です。裁判実務*3とは別途の解釈をすることも自由でしょう(法学者の意義はそこにあるのですし)。ですが、法が国家権力による強制力を有する社会規範であることを鑑みれば、考慮に値すると思います*4

*1:ただし、近時の学説は附従性における主従要件に否定的見解を示すものがある。上野達弘「引用をめぐる要件論の再構成」『著作権法民法の現代的課題』半田正夫先生古稀記念論文集 2003年 法学書院 および 飯村敏明「裁判例における引用の基準について」著作権研究26号 2000年 など

*2:ただし、この判例自体は私的複製に関するもの

*3:参考となる判例を一部紹介すると以下のようになる。最判昭55・3・28 パロディー・モンタージュ事件、東京高判昭60・10・27 藤田嗣治絵画複製事件、東京高判平12・4・25 脱ゴーマニズム宣言事件、東京高判平5・12・1(上告棄却確定) 本多勝一反論権事件など。特に本多勝一反論権事件高裁判決は、いわゆる要約引用に関する判例だが、評論の自由が制約を受けるおそれを丹念に考察している点に注目してほしい

*4:なお、全ての法に精通すべきであると申し上げているわけではありません。法律は解釈から免れることができませんし、解釈は時代の行為規範とともにうつり変わるのですから、誰にとってもそれは無理な話です