プライバシーを語るための4つのアプローチと9つの説

プライバシー権は、当初「ひとりで放っておいてもらう権利」[right to be let alone]として措定され、米国の判例で形成・発展を遂げてきた。
日本においては、「宴のあと」事件の地裁判決*1にて「私生活をみだりに公開されないという法的保証」としてプライバシー論が展開された。しかし、最高裁は今のところ「プライバシー」を直接的には認めておらず、「プライバシー」という言葉を避けて議論をする傾向にある。ただし、前科等照会事件*2においては補足意見に「プライバシー」への言及が見られるし、外国人指紋押捺事件*3においても一般論としてプライバシー侵害の危険性を認めている。しかし、その定義は明確にされていないため、最高裁がいかなる立場を採用しているのかは不明である。

他方で、プライバシー権の把握をめぐる議論は日々展開されている。だが、その権利の法的構成がいかなる「プライバシー」の基礎概念を前提としているのかは、必ずしも明らかにされていおらず、せいぜい法的構成を先取りした上での言及にとどまっているとの批判が、棟居快行から「プライヴァシー概念の新構成」において提示されている。
この批判をベースにして、各説を検討してみたい。

「ひとりで放っておいてもらう権利」(ウォーレン=ブランダイス)

プライバシーの権利が、「ひとりで放っておいてもらう権利」として米国判例において形成されたことは前述の通りである。しかし、「ひとりで放っておいてもらう権利」というだけではプライバシー侵害に対抗する消極的権利ないしは排除請求権という法的構成以上のものを意味するものではなく、個人の不可侵の人格を暗黙のうちに考えていたと思われるものの、明示的には何も言っていないと棟居は批判する。

「自己情報コントロール権」(佐藤幸治

それに対して、佐藤幸治プライバシー権に「自己情報コントロール権」として積極的意味を持たせた。すなわち、高度情報化社会において私生活を安寧を脅かすことがらは、その公表だけでなく、個人情報の行政機関による収集および管理によっても成されるのであり、そのような私的な情報ないし個人情報の利用についてコントロールする権利を認めるべきだとしている。
しかし、これは法的構成のみが先行し、基礎概念が今後の課題として残されている。このことは佐藤自身も明確に意識している。

「評価の対象となることのない生活状況または人間関係に関する知識・情報」のコントロール権(阪本昌成)

阪本説では、プライバシー、プライバシー利益、プライバシー権という3つの概念を区別すべきであるとし、プライバシーとは「他者による評価の対象となることのない生活状況または人間関係が確保されている状態」であり、プライバシー利益とはプライバシーの「状態に対する正当な要求または主張をいう」とされ、ここではじめて規範的性格が概念に与えられている。
しかし、何故に評価の対象とされるか否かでプライバシーの有無を分けるのか、という定義付けの合理性が明らかでないと棟居は批判を加える。

「社会的評価からの自由」(佐伯仁志)

佐伯は、プライバシーの保護を、社会の評価から自由な領域の確保としてとらえるべきとする。個人の自律と「開かれた社会」を目的として、プライバシー保護の要否を機能的、目的・手段論的に判断すれば良いという基準論が表明されているものの、ここでもやはり、何がプライバシーであるべきかの答えは明らかでない。


以上は日本における学説を参照してきたが、米国におけるプライバシーの基礎概念に関する理論のうち、定義主義のアプローチについても検討したい。

フリード説

万人に秘匿された「プライバシー」情報を、相手を選んで与え合うことが親密な人間関係の形成にとり不可欠であることに着目し、伏せられた個人情報のカードを誰に対してどこまで開けて見せるかという選択の自由こそが、正にプライバシー保護を通じて確保されるべき実体であるとする。
したがって、プライバシーは親密関係ゲームに際して当事者のみならず局外者も遵守しなければならないルールとなる。

ラッシェル説

フリードがプライバシーを、もっぱら親密関係をそうでない関係と区別して形成するための手段と位置付けていたのに対して、ラッシェルはより一般的に、プライバシーとは、多くの親密でない関係を含むところの様々の種類の関係をこなしていくための手段なのだとする。

ライマン説

フリード説およびラッシェル説は、市場イメージを前提としているが、ライマンは親密な関係は情報の独占的な供与だけで形成されるのではなく、個人情報の共有を有意義なものにしているところの、相手に対する思いやり[caring]のコンテクストで形成されるとする。

上述のように、フリード説およびラッシェル説によってプライバシーの領域的イメージが払拭され、機能的な把握がなされるようになった。そしてライマン説は、機能論に向けられた領域説からの反駁と見ることができるだろう。また、ラッシェル説においては、プライバシーの概念が情報の内容やその質を問わず、多様な社会関係を形成・維持する機能それ自体の一部であるとされたことにより、社会システムの一要素として極度に機能主義的に再構成されている。したがって、プライバシー権は財産権に近似した自己情報の管理処分権として還元される。

「人間が自由に形成しうるところの社会関係の多様性に応じて、多様な自己イメージを使い分ける自由」(棟居快行)

フリード説およびラッシェル説においては、個人「情報」の開示と共有が社会関係の形成・維持の中核であることを前提としているが、それはデータそのものに過大な機能を期待しすぎではないだろうか、と棟居は指摘する。つまり、社会関係は開示コントロールによって操作されうる客体ではなく、複数の主体間で繰り広げられるシンボリックな相互作用と見るべきであろう。人々は生のデータでなく、人間相互のシンボリックな相互作用によって社会関係を形成するのである。伝えるのはイメージであって、生の情報そのものではないことに注意すべきであるとする。
ショーマン説においては、「観客の分離」「役割」などの概念を用いることにより、プライバシーの基礎概念を社会学的に明らかにし、ラッシェル説の「情報」コントロール権説的性格から脱却しようと試みている。つまり問題となるのは、社会関係ごとの役割イメージの使い分けである。この点を棟居説では重視する。
演技者にとって、当該演技の行われている演技者―観客のコンテクスト、すなわち当該社会関係の場に、それとは別のコンテクストにおける役割期待や役割イメージが持ち込まれることは、自己の役割イメージの混乱と崩壊、ひいては社会関係の失敗をももたらすであろう。そして、社会関係の自由な形成を妨げられないことは、人間の一般的行動の自由の一般として、憲法上の保障を与えられると棟居は述べる。

そこで棟居は、人間が自由に形成しうるところの社会関係の多様性に応じて、多様な自己イメージを使い分ける自由をプライバシーと呼ぶことを提唱する。
この考察に従えば、名誉侵害は同一の社会関係内部における役割イメージの「真偽」が問題となっているのに対して、異なる社会関係を横断するような役割イメージの侵害は、役割イメージがコンテクストから切り離して論じられない以上、その「真偽」を問うことはナンセンスということになり、したがって、名誉侵害の場合にのみ「真実の証明」による免責が制度上可能となる。

まとめると、棟居は「プライバシー」の基礎概念を明確化していない諸説を批判した上で、プライバシーを領域的イメージではなく機能面からとらえ、「人間が自由に形成しうるところの社会関係の多様性に応じて、多様な自己イメージを使い分ける自由」であるとしている。
自己情報コントロールとしていないのは、人々は生のデータでなく、人間相互のシンボリックな相互作用によって社会関係を形成するという前提に立つからである。


しかし、私見としては、棟居は人間相互のシンボリックな相互作用を主軸としながらも、ハーバーマス的な意味での「コンテクストの共有」という前提を何の譲歩や定義も抜きに話を進めている点に疑問の余地を感じる。社会システム論の観点からは、コンテクストは共有できなくともコミュニケーションは成立すると見るのであるから、自分の演じる役割イメージがそのまま観客に伝わっているとは限らない。このことに関する検討がなされていない点で、棟居の想定するプライバシー概念の範疇に含まれる利益が不明瞭であると感じる。保護すべきなのは、自分から見たときの自己イメージの使い分けなのか、それとも観客から見たときの自己イメージの使い分けまで含むのだろうか。

承認と自己拘束

さて、石川健治は「人格と権利」のなかで棟居説を引きつつ、イェリネックのコンセプトである「承認」と「自己拘束」を用い、イェリネックの公権論の構成を組み替えることによって、人権論と人格権論の再構成を試みようとしている。そして、棟居が問題としているのは現代における公・私のboundaryの移動であり、本来私的領域に属するものが公共の劇場にせり出してきた局面を、自己イメージを使い分ける権利として定式化したものでないかと指摘している。

イェリネックが論じた近代国家が行った自己収縮は、主権者であるということを止めないで、公益という目的によって自らの権利能力を限定するという形で行われる。他方で、そのような国家の自己制限により、国民は、国家=公共体とは離れたところで、私的自由を享受する。したがって、イェリネックの想定する<私>は、それゆえ、言葉の本来の意味でprivateな、<公>から剥離した<私>であった。近代人は<私>人としてのstatusと<公>人としてのstatusという、二重のstatusを生きることになる。<公>人としての国民は、権利保護を請求して訴えを提起するstatusをもっており、これに基づき訴権(権利保護請求権)を行使することもできるが、基本的に<私>的空間は公共性がゼロであるということになる。

しかし、このような古典的図式を懐疑的に見るのが石川の立場であり、むしろ今日においては、<公共>が国家からあふれだすにつれ、従来は<公共>から剥離した<私>の空間に属していた領域が、劇場化しつつあるのではないかという問いが提起されうる。その意味では、憲法学が繰り返し再現してきた<公共>は、新たな水準で拡大してきているのかもしれないし、それに応じて「プライバシー」概念を再構成する必要もあるのではないか。


石川によれば、国家による一括承認で問題が解決するというイェリネックの想定自体が現実離れしていたのであり、人間の「人格」が「社会」において承認されていない状態は、依然として解消されていない。そこで、何故人は深く傷つくのか、またそのなかで、人権による保護に値するのはどのようなものかということを考える必要がある。その考慮においては、承認と自己拘束という2つのコンセプトを石川は用いている。ただし、イェリネックのように国家による一元的承認を前提とするのではなく、承認のコンセプトを社会の多元的文脈へ拡張する。

ホーネットが「愛」・「法」・「連帯」という3つの承認文脈からdignitary harmを主題化しているのでそれを参照すれば、人間の個性を「人間」であることに伴う属性としてではなく、人間の固有性[Eigenschaft, property]として重視し、またその個性ゆえに他者を承認したり承認しなかったりするという文脈を指摘できる。そして、「人間の尊厳」や不可侵性とは、その実践的な自己関係の全側面において、主体が社会から承認されている事態にほかならず、そのもとで人間は自信や自尊心や自己評価といった積極的な仕方で自己に関係し得ると石川は述べる。自己決定権とは、実は、そうした社会関係のいくつかにおいて、他人に対して自己の行為の承認を求める権利のことである。

名誉権の構造について、連帯関係からの考察を欠かすことはできない。元々名誉とは「身分」に付着する文脈的な法益であり、法関係の文脈からは尽くせない何かが残る。外部的な評価との関係では、自己をどのような社会的ペルソナとして表現するかが、自己決定権と密接に結びつく問題であり、同時に、棟居により強調されているように、自己イメージを使い分ける権利としてのプライバシー権という関連をもちはじめていると石川は指摘する。


前記のアプローチは、石川自身が自覚しているように、法関係を全面化して近代世界を描き切ろうという人権論に内在する志向性が問われることになる。そして石川は結局のところ、「仮面を外す場所」の確保にプライバシー権を見るという、従来想定されてきた私的領域よりもさらに限定された範囲を指向している。家庭や夫婦の寝室ですら人は「父として」「妻として」などの仮面を付けうるのだから、そこは内心の自由に近似してくるように思われる。しかし、詳細は論じられていないので両者の区別がどのようにされているのか、あるいはされていないのかは不確定である。

*1:東京地判昭和39・9・28民集15-9-2317

*2:最判昭和56・4・14民集35-3-620

*3:最判平成7・12・15刑集49-10-842