「SARVHvs東芝」をよく知るための番外編:「SARVHに勝ち目はあるか」について

前回前々回と「SARVHvs東芝」をよく知るための私的録音録画補償金FAQを書いてきました。予告している発展編の前に、番外編です。
本件紛争について「政令を変えたもの勝ち」であるという見方があります。本稿ではこの見解を検討していきます。

行政活動の限界

bn2islanderさんは「権利者がメーカーを訴えた場合、裁判所が著作権法の条文だけを読んで判断するのであれば、権利者側が勝つ可能性が五分以上はあると考える」とおっしゃっていますが、このへんのところを一般論として*1捉えるとどうなるかということを考えてみましょう。

仮に「著作権法に『対象機器は政令によって決定される』と書いてある以上、施行通知で何を書こうが、政令が全てである。裁判所は該当の機器を政令と照らし合わせて、録音録画保証金の対象かどうかを判断する」という見解を採用すれば、行政庁は概ねフリーハンドの公権力行使が可能となってしまい、法律が実質的に上書きされたり、恣意的な政省令でも通ってしまうことになり、一般論として妥当ではないとも思えます。
このような問題意識は行政法学において常に意識されてきました。そして行政法学はその所産として、行政活動を国民の代表者により制定された法律に従わせることで、公権力の恣意的介入を防ぎ、国民の自由・権利の保護を図るとともに、行政活動を法律によって統制することで、民主的コントロールの下に置くことが望ましいとの総論を導いたのです。

法律による行政

上述のような行政活動一般が国会の制定する法律の定めるところにより、法律によって行わなければならないという原理を「法律による行政の原理」といいます。
法律による行政の原理をもう少し具体化したものとして、法律優位の原則と法律留保の原則があります。法律の優位とは、行政活動が法律の定めに違反して行われてはならないとする原則を指し、法律の留保とは、行政活動にはその根拠となる法律の存在が必要であるという原則をいいます*2

では、政省令や施行規則はどのように考えるべきでしょうか。この問題について、行政機関も法律による授権があれば法規を定立することができますが、その内容は法律による委任の範囲を超えてはならないと考えられています。

実際に法律による委任の範囲を超え違法無効とされた事案

例えば、拘置所に未決勾留中であったAが、当時10歳の義理の姪との面接許可申請をしたところ、拘置所長が監獄法施行規則120条により不許可とする旨の決定をした事案について、最高裁は、監獄法施行規則(平成3年法務省令第22号による改正前のもの)120条及び124条の各規定は、未決勾留により拘禁された者と14歳未満の者との接見を許さないとする限度において、監獄法50条*3の委任の範囲を超え、無効であるとしました*4 *5
最高裁は、被勾留者は逃亡または罪証隠滅の防止という目的のために必要かつ合理的範囲において権利の制約を受け、また監獄内の規律・秩序を維持するために必要な限度で合理的な制限を受けますが、それ以外の範囲については原則として一般市民としての自由を保障されているとした上で、「これらの規定は、たとえ事物を弁別する能力の未発達な幼年者の心情を害することがないようにという配慮の下に設けられたものであるとしても、それ自体、法律によらないで、被勾留者の接見の自由を著しく制限するものであって、法50条の委任の範囲を超える」ものであり「法が一律に幼年者との接見を禁止することを予定し、容認しているものと解することは、困難」であるのだから、委任の範囲を超えて無効であるとしています。

参照
監獄法第50条 (平成17年法律第50号で「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律」へ改題)
接見ノ立会、信書ノ検閲其他接見及ヒ信書ニ関スル制限ハ法務省令ヲ以テ之ヲ定ム


監獄法施行規則(平成3年法務省令第22号による改正前のもの)
第120条
14歳未満ノ者ハ在監者ト接見ヲナスコトヲ許サス
第124条
所長ニ於テ処遇上其他必要アリト認ムルトキハ前四条ノ制限ニ依ラサルコトヲ得


また、婚姻によらないで懐胎・出産し、児童扶養手当法施行令1条の2第3号に該当する児童を監護する母として児童扶養手当の支給を受けていたBが、子がその父から認知されたことより児童扶養手当の受給資格が消滅したとして受給資格喪失処分の取消しを求めた事案について、最高裁児童扶養手当法4条1項5号の委任に基づき児童扶養手当の支給対象児童を定める児童扶養手当法施行令(平成10年政令第224号による改正前のもの)1条の2第3号のうち、「母が婚姻(婚姻の届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にある場合を含む。)によらないで懐胎した児童」から「父から認知された児童」を除外している括弧書部分は、同法の委任の範囲を逸脱した違法な規定として無効であるとました*6
これは、児童扶養手当法が父と生計を同じくしていない児童が育成される家庭の生活の安定と自立の促進に寄与するため、当該児童について児童扶養手当を支給し、もって児童の福祉の増進を図ることを法の目的としているところ、「施行令1条の2第3号が本件括弧書を除いた本文において、法4条1項1号ないし4号に準ずる状態にある婚姻外懐胎児童を支給対象児童としながら、本件括弧書により父から認知された婚姻外児童を除外することは、法の趣旨、目的に照らし両者の均衡を欠き、法の委任の趣旨に反する」ため、違法な規定として無効と解すべきと考えたからです。

参照
児童扶養手当法第4条1項
第4条 都道府県知事、市長(特別区の区長を含む。以下同じ。)及び福祉事務所(社会福祉法(昭和26年法律第45号)に定める福祉に関する事務所をいう。以下同じ。)を管理する町村長(以下「都道府県知事等」という。)は、次の各号のいずれかに該当する児童の母がその児童を監護するとき、又は母がないか若しくは母か監護をしない場合において、当該児童の母以外の者がその児童を養育する(その児童と同居して、これを監護し、かつ、その生計を維持することをいう。以下同じ。)ときは、その母又はその養育者に対し、児童扶養手当(以下「手当」という。)を支給する。
一 父母が婚姻を解消した児童
二 父が死亡した児童
三 父が政令で定める程度の障害の状態にある児童
四 父の生死が明らかでない児童
五 その他前各号に準ずる状態にある児童で政令で定めるもの


児童扶養手当施行令第1条の2 (平成10年政令224号による改正前のもの)
法第4条第1項第5号に規定する政令で定める児童は、次の各号のいずれかに該当する児童とする。
一 父(母が児童を懐胎した当時婚姻の届出をしていないが、その母と事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。以下次号において同じ。)が引き続き1年以上遺棄している児童
二 父が法令により引き続き1年以上拘禁されている児童
三 母が婚姻(婚姻の届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にある場合を含む。)によらないで懐胎した児童(父から認知された児童を除く。)
四 前号に該当するかどうかが明らかでない児童

つまり、行政機関が定立した法規であり、かつ一見法律による授権があるように思われる規定であっても、法律の趣旨・目的に照らして委任の範囲を超えた規定であると判断されれば違法となり、当該規定は無効となりうるのです。
もっとも、銃刀法14条1項が美術品・骨董品として価値のある古式銃砲や美術品として価値のある刀剣類につき、登録すれば所持できるものとするところ、登録対象を刀剣類について日本刀に限定する銃砲刀剣類登録規則がいずれも適法とされたケースもあります*7
結局のところ、特別法の内容をよくよく考え、法の趣旨目的に立ち返って解釈することが常に必要となると言えるでしょう。

政令を変えたもの勝ち」とは限らない

よって、「政令を変えたもの勝ち」であるという

著作権法に「対象機器は政令によって決定される」と書いてある以上、施行通知で何を書こうが、政令が全てである。裁判所は該当の機器を政令と照らし合わせて、録音録画保証金の対象かどうかを判断する。

http://d.hatena.ne.jp/bn2islander/20091019/1255962171

との見解は、個別具体的な結論は別として、行政法上の一般論としては是認することができません。法解釈はそんなに簡単に判断できるものではなかったりします。
行政機関が定立した法規であり、かつ文理上は法律による授権に沿うように思われる規定であっても、法律の趣旨・目的に照らして委任の範囲を超えた規定であると判断されれば無効となるとした事例も現に存在していることからも、そのことが伺えます。

当事者がどのような主張立証を展開するかにもよりますが、裁判所は該当の機器を政令もさることながら、その前提となる著作権法の目的趣旨とも照らし合わせて、録音録画補償金の対象かどうかを判断するところまで行くことも十分考えられる。かならずしも政令がすべてで、政令レベルで勝負が決まるというわけではありません。

さらに、

一方、メーカー側は、法律、政令では勝負にならないから、著作権法の趣旨をふまえた上で「アナログチューナー非搭載のレコーダーを録音録画補償金の対象にする事は、著作権法の趣旨に反している。従って、違法である」事を立証しなければならないが、それは簡単なことではないと思うのである。

とありますが、確かに立証は簡単なことではないかもしれません。しかし、私的録音録画補償金の趣旨が著作権者への利益の還元が目的であり、私的使用目的での複製の自由を確保しつつ、金銭で合理的解決を図ろうとするものということは通説的立場です。

また、実情は別論として著作権法上は、著作権者が私的使用目的でデジタル録音・録画する者に補償金を請求し、その請求・受領に協力する義務を製造業者に課しているという建前を採る以上、否認・抗弁は比較的容易であると考えられます。
私見では、むしろ問題となるのは(SARVH側の請求原因の立て方にもよりますが)メーカー側はかねてより補償金を販売価格に上乗せしておらず実質上負担しているのはメーカーである旨公言してきた点が「協力義務」または「支払義務」の認定について裁判上どのような影響を与え、また、協力義務の法的性質がどう判断されるかということではないかと思われます。

制度趣旨を論じる前段階で躓くことも十分にありえますが、仮に(行政訴訟ではない)民事訴訟の本件において、ここまで私的録音録画補償金制度の趣旨に踏み込んで判断するのであれば、興味深いことになるのではないかと思います。
既に以前の記事で指摘したとおり、補償金返還請求制度(「合法性の『アリバイ』的な規定」)や徴収協力義務(「極めてもろいガラス細工のような制度」)など法理論としてはかなり無理をした制度だからです。裁判所がどう判断するか注目されます。

*1:ここでいう「一般論」とは規範の定立レベルを意味します

*2:ただし、行政活動全般に法律の根拠が必要か、学説上争いがある

*3:現在は「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」に改正されている

*4:最判平成3・7・9民集49-6-1049

*5:ただし、拘留所長の「過失」は否定し、国家賠償は認められていない

*6:最判平成14・1・31民集56-1-246

*7:最判平成2・2・1民集44-2-369

「SARVHvs東芝」をよく知るための私的録音録画補償金FAQ<応用編>

私的録音録画補償金制度とは何なのか、その概略について基礎編でまとめました。

私的録音録画制度は、著作権者への利益の還元が目的とするもので、私的使用目的での複製の自由を確保しつつ、金銭で合理的解決を図ろうとする制度だということがお分かりいただけたと思います。
このことを押さえた上で、応用編です。

Q 私の録音機器にはボカロとか自作音源しか入ってないんですが、それでも補償金を間接的に支払うのは変じゃないですか?

A その通りです。本来ならば補償金支払義務は発生していないので、補償金の返還が請求できることに一応なっているのですが…。
録音録画機器や記録媒体を購入しても、自作曲を録音するだけだったり、こどもの運動会を撮影したりするだけで、他者の著作権や著作者隣接権のコンテンツを複製していないという人もいると思います。
そのような場合、私的録音録画補償金を支払う必要はないはずですが、製品の価格に補償金分が上乗せされる仕組みが採用されているため、事実上払う必要のないお金を支払っていることになります。
そこで、著作権法104条の4第2項は、購入した機器等を専ら私的録音録画以外の用途に供することを証明して指定管理団体である私的録音録画補償金協会(SARAHやSARVH)に補償金の返還請求をできることとしています。
しかし、(1)他の用途に使っていないと証明することは難しいこと、(2)極めて少額のお金のために煩雑な返還手続きをとるのはコストベネフィットに見合わないことから、現実的には返還請求をすることは考えられません。
かつて、SARVHに対して私的録音録画補償金の返還請求をした猛者がいたそうですが、DVD-R4枚分で返還金は8円だったそうです。専門家も「このような額の返還は制度としておよそ実効的意味がない」「しかし結果的に複製しなかった者に課金する理論的根拠はないので、全く実効性のない規定ではあるが返還の規定を置かざるを得なかった。その意味では合法性の≪アリバイ≫的な規定」であるとしています*1
したがって、私的使用をしているかという事実の有無に関わらず、実質的にすべての機器・記録媒体の購入者に対して課金しているのが現状です。

参照:著作権法104条の4第2項 私的録音録画補償金の支払の特例

第三十条第二項の政令で定める機器(以下この章において「特定機器」という。)又は記録媒体(以下この章において「特定記録媒体」という。)を購入する者(当該特定機器又は特定記録媒体が小売に供された後最初に購入するものに限る。)は、その購入に当たり、指定管理団体から、当該特定機器又は特定記録媒体を用いて行う私的録音又は私的録画に係る私的録音録画補償金の一括の支払として、第百四条の六第一項の規定により当該特定機器又は特定記録媒体について定められた額の私的録音録画補償金の支払の請求があつた場合には、当該私的録音録画補償金を支払わなければならない。
2 前項の規定により私的録音録画補償金を支払つた者は、指定管理団体に対し、その支払に係る特定機器又は特定記録媒体を専ら私的録音及び私的録画以外の用に供することを証明して、当該私的録音録画補償金の返還を請求することができる。

Q コピーに制限がかかっているなら、補償金は不要だということになりませんか?

A 私的録音録画補償金制度の目的・趣旨を考慮すれば、そう考えることもできますが、まだ議論の続いているところです。
すでにお話ししたとおり、私的な領域での録音録画は自由ですが、私的領域における複製が「微々たるもの」だと言いきれなくなってきたため、複製者から権利者へ利益を還元する必要があるということでできたのが、私的録音録画補償金制度でした。
このことを踏まえると、(1)複製回数を制限するタイプの保護技術なら、私的領域における複製が権利者に影響を与えない範囲に抑えるという事前の調整が可能であり、(2)複製回数や態様を把握するタイプの保護技術なら、複製回数や態様に応じた課金ができ、契約などによって事後の調整ができるということになります。すなわち、権利者は私的領域における複製であっても、程度把握して予想することができ、私的複製が与える影響は少なくなると言えそうです。
今回の紛争で問題となっているアナログチューナー非搭載DVDレコーダーについては、デジタル放送につき技術的にコピーが制限されています。デジタル放送専用録画機が補償金の対象になるかについて、平成21年1月の文化審議会著作権分科会報告書によれば、関係者の合意は得られていないということになっていました。しかし、文化庁は2009年9月「デジタル放送専用録画機は補償金の対象になるか」というSARVHからの問い合わせに対してアナログ・デジタルを問わず補償金制度の対象であるとしています。ここは争点のひとつとなるところでしょう。

Q メーカーが補償金の徴収に協力しないと言ったらどうなるのですか?

A 対象機器の製造業者が協力義務に反した場合の制裁は、著作権法上は特にありませんが…。
対象機器を製造販売するメーカーには、補償金の支払い請求および受領について協力義務はありますが(著作権法104条の5)、メーカーに直接の支払義務はないため、協力義務違反に対する制裁規定はとりあえずありません。著作権法上は、ユーザーがSARAHやSARVHに対して私的録音録画補償金を直接支払うというという建前になっており、メーカーはそのお金の流れを助けるにすぎないということになっているからです。
このことを指して、「事実上全業者が拒否しないという前提あるいは合意の上に成立しており、極めてもろいガラス細工のような制度である」と言われています*2
この点は、裁判上も争点になると考えられます。なぜなら、仮に問題となるアナログチューナー非搭載DVDレコーダーが補償金の対象になるとしても、メーカー側が徴収協力を拒否することができるのであれば、メーカー自身に支払義務があるわけではないのですから、あとは原則に戻ってSARAHやSARVHがユーザー個人に対して支払いを求めなくてはいけないことになり、裁判上の請求が認められないことになるからです。
しかし、メーカー側はかねてより補償金を販売価格に上乗せしておらず実質上負担しているのはメーカーである旨発言してきました。このことが「協力義務」または「支払義務」の認定について裁判上どのような影響を与え、また、協力義務の法的性質がどう判断されるかは別途注目すべき点のひとつであると考えられます。



応用編が長くなってしまったので、続きは発展編で。

Q 「私的使用目的」ってどこまでやって大丈夫なんですか?

Q iPod私的録音録画補償金の対象外と聞きましたが、デジタル録音・録画機器って具体的にどんなものですか?

Q 違法にコピーされたコンテンツが横行し、権利者の被害が拡大しているので、現行の補償金よりも対象機器拡大など見直しが必要ではないですか?

Q いっそのことコピーフリーにして、その分補償金をたくさん支払うということにはできませんか?

「SARVHvs東芝」をよく知るための私的録音録画補償金FAQ<基礎編>

SARVH(私的録画補償金管理協会)が東芝に対して補償金の支払いを求めていますが、この紛争の前提となる私的録音録画補償金制度とは何なのか、実はよくわからないという方も多いと思ったので、基礎的な知識をQ&A形式でまとめてみました。
紛争の具体的検討には立ち入りませんが、前提となる知識を得ていただければと思います。まずは基礎編からどうぞ。

Q 私的録音録画補償金ってそもそも何ですか?

A 私的使用目的でデジタル機器を使ったり記録媒体に録音・録画する場合に、著作権者へ利益を還元するために支払うお金のことです。
私的使用目的の録音・録画であっても、政令で定めるデジタル録音・録画機器(著作権法施行令1条)により、政令で定める記録媒体(同1条の2)に私的使用目的で録音・録画する者は相当な額の補償金を著作権者に支払わなければなりません。

参照:著作権法30条2項

私的使用を目的として、デジタル方式の録音又は録画の機能を有する機器(放送の業務のための特別の性能その他の私的使用に通常供されない特別の性能を有するもの及び録音機能付きの電話機その他の本来の機能に附属する機能として録音又は録画の機能を有するものを除く。)であつて政令で定めるものにより、当該機器によるデジタル方式の録音又は録画の用に供される記録媒体であつて政令で定めるものに録音又は録画を行う者は、相当な額の補償金を著作権者に支払わなければならない。

Q 補償金はコンテンツを録音・録画することの対価なのですか?

A 私的使用目的の複製は本来自由なので、私的録音録画補償金は純粋な意味での「対価」ではありません。
個人的に音楽をコピーしたり家庭内でビデオをダビングすること(「私的使用」といいます)は、著作権の侵害にはなりません。著作権法30条1項が著作権の及ぶ範囲を制限しているからです。
コンテンツに対してお金を出すのは、権利者がコンテンツ(著作物)に関して複製する権利や頒布する権利を持っていることを前提としているためですが、私的使用はこの前提が異なっています。

参照:著作権法30条1項

著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
一 公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器(複製の機能を有し、これに関する装置の全部又は主要な部分が自動化されている機器をいう。)を用いて複製する場合
二 技術的保護手段の回避(技術的保護手段に用いられている信号の除去又は改変(記録又は送信の方式の変換に伴う技術的な制約による除去又は改変を除く。)を行うことにより、当該技術的保護手段によつて防止される行為を可能とし、又は当該技術的保護手段によつて抑止される行為の結果に障害を生じないようにすることをいう。第百二十条の二第一号及び第二号において同じ。)により可能となり、又はその結果に障害が生じないようになつた複製を、その事実を知りながら行う場合

Q 私的使用はどうして適法なのですか?

A 私的領域における複製は微々たるものである半面、その把握は難しく、安価な交渉・課金が技術上の困難だからです。また、私的領域への干渉やプライバシー問題を惹起することもあり、自由とされています。
私的使用は、全体的に見ても微々たるもので、また営利の目的もないことから権利者に与える影響は少ないと言えます。また、私的複製行為は捕捉が困難ですし、仮に侵害を発見しても個々の複製による損害は少なく、獲得できる損害賠償額を考えると事実上請求の対象とはなりにくいことも指摘できます。さらに、一般的には権利者と複製者の交渉の場がなく、事前に両者が契約を締結するにはあまりに交渉コストがかかりすぎます。
従来のアナログの複製は精度が落ちていたため、劣化した複製が権利者の利益を不当に害するほどでもないということも理由の一つです。
そして、個人の自由という観点から、著作権法が私的領域にまで干渉することが果たして妥当かどうか、プライバシーとの関係で私生活の秘密を守る必要があるのではないかと考えられています*1

Q 私的使用は適法なのに、どうしてお金を払わなければならないのですか?

A 複製技術の発達により、私的領域における複製が「微々たるもの」だと言いきれなくなってきたため、複製者から権利者へ利益を還元する必要が出てきたからです。
従来のアナログの複製は精度が落ちていたので、劣化した複製が権利者の利益を不当に害するほどでもないとされていました。しかし、現在はデジタルの複製が多く、手軽に大量に複製できて、しかもそれほど劣化しませんから、権利者の利益を害するおそれがあります。
また、私的領域で行われる複製であっても、インターネット等を通じて大量になされることも多く、全体的に見ても微々たるもので権利者に与える影響は少ないとはもはや言えないと指摘されています。
なお私的録音録画制度は、録音録画は自由であるとの前提に立ちつつ、補償金の支払いを義務付けているのであり、著作権の効力を制限している30条の適用除外として複製権が復活するものではないと考えられています*2

Q 補償金を支払った覚えがないのですが…?

A ユーザーが直接支払うわけではありません。著作権者が複製者に直接私的録音録画補償金の支払いを求めるのは大変なので、代わりに機器や記録媒体を製造・輸入する事業者が指定管理団体に一括して支払い、権利者に分配するということになっています。
30条2項によれば、著作権者は私的使用目的でデジタル録音・録画する者に補償金を請求できます。しかし、複製者を探して請求するのは多大なコストがかかるので、デジタル録音・録画機器や記録媒体を製造したり輸入したりする事業者を介して支払うことになっています。私的複製をする者が複製に応じた補償金の支払いをするのではありません。
製造業者・輸入業者には、補償金の支払いや受領に協力しなければならないとされており(著作権法104条の5)、メーカー等が機器や記録媒体の代金に補償金額を上乗せして販売して指定管理団体(録音だと私的録音補償金管理協会[SARAH]、録画だと私的録画補償金管理協会[SARVH])へお金を渡すということになっています。
複製者が支払うべきであって、メーカーが本来支払うべき主体ではないので、かなり技巧的な法的構成です。受領協力義務であり支払義務でない点も気を付けてください。

参照:著作権法104条の4 私的録音録画補償金の支払の特例

第三十条第二項の政令で定める機器(以下この章において「特定機器」という。)又は記録媒体(以下この章において「特定記録媒体」という。)を購入する者(当該特定機器又は特定記録媒体が小売に供された後最初に購入するものに限る。)は、その購入に当たり、指定管理団体から、当該特定機器又は特定記録媒体を用いて行う私的録音又は私的録画に係る私的録音録画補償金の一括の支払として、第百四条の六第一項の規定により当該特定機器又は特定記録媒体について定められた額の私的録音録画補償金の支払の請求があつた場合には、当該私的録音録画補償金を支払わなければならない。
2 前項の規定により私的録音録画補償金を支払つた者は、指定管理団体に対し、その支払に係る特定機器又は特定記録媒体を専ら私的録音及び私的録画以外の用に供することを証明して、当該私的録音録画補償金の返還を請求することができる。
3 第一項の規定による支払の請求を受けて私的録音録画補償金が支払われた特定機器により同項の規定による支払の請求を受けて私的録音録画補償金が支払われた特定記録媒体に私的録音又は私的録画を行う者は、第三十条第二項の規定にかかわらず、当該私的録音又は私的録画を行うに当たり、私的録音録画補償金を支払うことを要しない。ただし、当該特定機器又は特定記録媒体が前項の規定により私的録音録画補償金の返還を受けたものであるときは、この限りでない。

著作権法104条の5 製造業者等の協力義務

前条第一項の規定により指定管理団体が私的録音録画補償金の支払を請求する場合には、特定機器又は特定記録媒体の製造又は輸入を業とする者(次条第三項において「製造業者等」という。)は、当該私的録音録画補償金の支払の請求及びその受領に関し協力しなければならない。

小括

  • 私的録音録画制度は、デジタル録音・録画を対象とし、指定管理団体(私的録音録画補償金協会)が、(政令により指定される)録音・録画媒体/機器の製造業者/輸入業者から補償金を徴収し、製品の価格に補償金分が上乗せされる仕組み(著作権法104条の4・104条の5)。
  • 著作権者への利益の還元が目的。私的使用目的での複製の自由を確保しつつ、金銭で合理的解決を図ろうとする制度である。

次は応用編です。

Q 私の録音機器にはボカロとか自作音源しか入ってないんですが、それでも補償金を間接的に支払うのは変じゃないですか?

Q 製造業者が補償金の徴収に協力しないと言ったらどうなるのですか?

Q 違法にコピーされたコンテンツが横行し、権利者の被害が拡大しているので、現行の補償金よりも対象機器拡大など見直しが必要ではないですか?

Q 「私的使用目的」ってどこまでやって大丈夫なんですか?

Q コピーに制限がかかっているなら、補償金は不要だということになりませんか?

Q iPod私的録音録画補償金の対象外と聞きましたが、デジタル録音・録画機器って具体的にどんなものですか?

「Winny事件」無罪判決を理解するための法律学上の一視点

報道によれば、いわゆるWinny事件について大阪高裁が第一審の京都地裁判決を破棄し、Winny開発者である被告人に無罪を言い渡したということである。
本判決が公開された際には全文を読んでみようと思い立つ方もいらっしゃるかもしれない。そこで、本判決を読む際のポイントは何か、ということを提案してみたい。

法律学の観点からいえば、本件の主たる関心は著作権法分野ではなく刑法にある。すなわち本件において幇助が成立するかどうかである。

幇助とはなにか?

本件は、ファイル交換ソフトWinnyをインターネット上で公開し、その後、多くの場合著作権侵害にあたる行為を成すために用いられている実態を認識しつつ、さらにWinnyに改良を加えて提供した行為について著作権侵害の幇助を問われている。
しかし、そもそも「幇助」とは何なのだろうか。

刑法62条は以下のように規定している。

第62条 正犯を幇助した者は、従犯とする。
2 従犯を教唆した者には、従犯の刑を科する。

同法62条1項の「正犯を幇助」するとは、正犯による犯罪の遂行を援助・補助することを指している。本件で言えば、実際に著作権を侵害した者(正犯)の著作権侵害の遂行を援助・補助したことが問われているのである。
幇助犯も処罰の対象となるのは、犯罪の遂行を直接行ってはいなくとも、犯罪の遂行を促進するものであるから、犯罪予防の見地から禁圧する必要性があるためである*1。なお、幇助犯の処断刑は正犯の刑を軽減したものとなる(同法63条)。

幇助も属する共犯の類型として、他にも共同正犯(60条)および教唆犯(61条)があるが、本稿では詳述しない。三者とも犯罪の遂行に複数の行為者が関与する「共犯現象」について処罰の対象となる類型を定めたものである。

殺人犯が用いた包丁を作った者は幇助犯か?

幇助犯が処罰の対象となる実質的理由については前述したとおりであるが、幇助犯が処罰されるのは、正犯を通じて間接的に法益侵害の結果を惹起してしまうためだと考えられている*2
つきつめれば、著作権の侵害を引き起こしてしまうという「結果の惹起」を防止することを問題としているのだから、そこでは幇助犯の行為と法益侵害という結果との間の因果関係をどのように捉えるかということを考えなければならないことになる。

さて、本件の第一審である地裁判決が報道された際に提示された疑問として「Winnyの開発者がファイル共有者の著作権侵害を手助けしたというのであれば、殺人犯が使った包丁を作った人や包丁を売った人も罪に問われるのか?」というようなものがあったと思う。
このような疑問を法律学の言葉で言い直すと、「幇助犯の因果性をどのようにとらえるべきか」ということになる*3

判例は、「正犯行為を物理的または心理的に促進しあるいは容易にする」関係があれば、幇助の因果性を認めていると言われている。したがって、正犯を精神的に力づけ、犯行の意図を維持ないし強化することに役立つものであれば、幇助にあたると考えられる。

「正犯行為を物理的または心理的に促進しあるいは容易にする」というだけで教唆犯にしてもいいのか?

しかし、「例えば空腹でやる気が出ない正犯者に、意思連絡なく*4食事を提供した料理店の店主」のようにごく日常的な行為まで幇助とされてしまうのは妥当ではない。そこで学説上は、「共犯者が提供した物が、日常生活上、ごくありふれており、共犯者からの給付がなくとも正犯者が同等の給付を当然得られ、しかも正犯者の側に当該物を必要とする緊急性が認められないような場合には、正犯行為を物理的に促進したとはいえないとするものもある」*5

この説に従えば、「殺人犯が用いた包丁」が、一般的に家庭で見られるような包丁であれば、日常生活上、ごくありふれているといえるし、当該包丁を提供しなくても正犯者たる殺人犯は、スーパーなどで同等の包丁を当然得られるだろう。そして、正犯者の側に当該物を必要とする緊急性が認められないような場合であったら、正犯行為を物理的に促進したとはいえず、包丁を作った者は、幇助に問われないというにことになりそうである。
このような判断基準を採用すれば「Winnyの開発者がファイル共有者の著作権侵害を手助けしたというのであれば、殺人犯が使った包丁を作った人や包丁を売った人も罪に問われるのか?」という疑問にも答えられる。

京都地裁はどう判断していたか?

この点、第一審においては、Winnyが匿名性と効率性に優れたものであることや、正犯者(「甲」および「乙」)が「雑誌やインターネットからの情報により,同じファイル共有ソフトでもWinnyであれば捜査機関から逮捕されないものであると考え」ていたこと、「WinnyがWin―MXとは異なって,ファイルを持っている相手方と交渉する必要がなく,またばれにくい」と認識していたことなどを認定した上で、

被告人が開発,公開したWinny2が甲及び乙の各実行行為における手段を提供して有形的に容易ならしめたほか,Winnyの機能として匿名性があることで精神的にも容易ならしめたという客観的側面は明らかに認められる。

としていた。「正犯行為を物理的または心理的に促進しあるいは容易にする」関係を肯定している部分である。

他方で、京都地裁判決においても「殺人犯が用いた包丁を作った者は幇助犯か」問題については意識しており、

もっとも,WinnyはP2P型ファイル共有ソフトであり,被告人自身が述べるところやE供述等からも明らかなように,それ自体はセンターサーバを必要としないP2P技術の一つとしてさまざまな分野に応用可能で有意義なものであって,被告人がいかなる目的の下に開発したかにかかわらず,技術それ自体は価値中立的であること,さらに,価値中立的な技術を提供すること一般が犯罪行為となりかねないような,無限定な幇助犯の成立 範囲の拡大も妥当でないことは弁護人らの主張するとおりである。
(3)結局,そのような技術を実際に外部へ提供する場合,外部への提供行為自体が幇助行為として違法性を有するかどうかは,その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識,さらに提供する際の主観的態様如何によると解するべきである。

と断わりを入れていた。
しかし、「被告人がどのような目的でWinnyを開発,公開していたのか,本件における幇助行為とされる時点において被告人がいかなる主観的態様であったかについて検討」した結果、

本件では,インターネット上においてWinny等のファイル共有ソフトを利用してやりとりがなされるファイルのうちかなりの部分が著作権の対象となるもので,Winnyを含むファイル共有ソフト著作権を侵害する態様で広く利用されており,Winnyが社会においても著作権侵害をしても安全なソフトとして取りざたされ,効率もよく便利な機能が備わっていたこともあって広く利用されていたという現実の利用状況の下,被告人は,そのようなファイル共有ソフト,とりわけWinnyの現実の利用状況等を認識し,新しいビジネスモデルが生まれることも期待して,Winnyが上記のような態様で利用されることを認容しながら,Winny2.0 β 6.47及びWinny2.0 β 6.6を自己の開設したホームページ上に公開し,不特定多数の者が入手できるようにしたことが認められ,これによってWinny2.0 β 6.47を用いて甲が,Winny2.0 β 6.6を用いて乙が,それぞれWinnyが匿名性に優れたファイル共有ソフトであると認識したことを一つの契機としつつ,公衆送信権侵害の各実行行為に及んだことが認められるのであるから,被告人がそれらのソフトを公開して不特定多数の者が入手できるように提供した行為は,幇助犯を構成すると評価することができる。

として、結局、有罪としたのである。

控訴審の大阪高裁がどのような事実認定および論理構成を採用したかについて、詳細は全文の公開を待たなければならないが、上記の論点について留意して読んでいただければ把握しやすいのではないかと思われる。


【追記】
本稿へのブックマーク・コメント欄において、本判例では認識ないし故意が問題となっているのではないかとの指摘がありました。しかし、各種報道及び傍聴された落合先生の手記を読む限り、故意に関する判断なのか、それとも本稿にいう因果性に関する判断なのか、その両方なのか、あるいは全く違うのかは未だ判然としていません。

「ソフトの提供者が不特定多数の者のうちに違法行為をする者が出る可能性・蓋然性があると認識し、認容しているだけでは足りず、それ以上に、ソフトを違法行為の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるようにインターネット上で勧めて提供する場合に幇助犯が成立する」というとき、後段の「ソフトを違法行為の用途のみに又はこれを主要な用途として使用させるように」という部分が因果関係を指しているとも捉えられますし、前段の「違法行為をする者が出る可能性・蓋然性があると認識し、認容しているだけでは足りず」という部分との繋がりを意識すれば故意を問題にしているとも捉えられます。

このことは、本稿脚注*3で引用した小倉先生の記事でも指摘されていることですが、この点についても大阪高裁の全文公開を待たれるところです。

*1:山口厚刑法総論 補訂版』(平成17年・有斐閣)251頁

*2:ただし処罰根拠については学説上争いがある

*3:なお、小倉先生は「問題は、この判決は、中立的な行為による幇助における『幇助の故意』を厳格に解釈したものなのか、中立的な行為による幇助における『因果の相当性』を厳格に解釈したものなのかということになろうかという気もします」として、因果性か故意かという点を注意すべきと指摘されている http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2009/10/winny-a515.html 本稿では、因果性の問題として扱っているが、この点についても大阪高裁の全文公開を待ちたい

*4:引用者注:「意思連絡」とは、この場合両者の意思疎通を指す

*5:以上について、今井ほか『リーガルクエス刑法総論』(2009年・有斐閣)351頁

プライバシーを語るための4つのアプローチと9つの説

プライバシー権は、当初「ひとりで放っておいてもらう権利」[right to be let alone]として措定され、米国の判例で形成・発展を遂げてきた。
日本においては、「宴のあと」事件の地裁判決*1にて「私生活をみだりに公開されないという法的保証」としてプライバシー論が展開された。しかし、最高裁は今のところ「プライバシー」を直接的には認めておらず、「プライバシー」という言葉を避けて議論をする傾向にある。ただし、前科等照会事件*2においては補足意見に「プライバシー」への言及が見られるし、外国人指紋押捺事件*3においても一般論としてプライバシー侵害の危険性を認めている。しかし、その定義は明確にされていないため、最高裁がいかなる立場を採用しているのかは不明である。

他方で、プライバシー権の把握をめぐる議論は日々展開されている。だが、その権利の法的構成がいかなる「プライバシー」の基礎概念を前提としているのかは、必ずしも明らかにされていおらず、せいぜい法的構成を先取りした上での言及にとどまっているとの批判が、棟居快行から「プライヴァシー概念の新構成」において提示されている。
この批判をベースにして、各説を検討してみたい。

「ひとりで放っておいてもらう権利」(ウォーレン=ブランダイス)

プライバシーの権利が、「ひとりで放っておいてもらう権利」として米国判例において形成されたことは前述の通りである。しかし、「ひとりで放っておいてもらう権利」というだけではプライバシー侵害に対抗する消極的権利ないしは排除請求権という法的構成以上のものを意味するものではなく、個人の不可侵の人格を暗黙のうちに考えていたと思われるものの、明示的には何も言っていないと棟居は批判する。

「自己情報コントロール権」(佐藤幸治

それに対して、佐藤幸治プライバシー権に「自己情報コントロール権」として積極的意味を持たせた。すなわち、高度情報化社会において私生活を安寧を脅かすことがらは、その公表だけでなく、個人情報の行政機関による収集および管理によっても成されるのであり、そのような私的な情報ないし個人情報の利用についてコントロールする権利を認めるべきだとしている。
しかし、これは法的構成のみが先行し、基礎概念が今後の課題として残されている。このことは佐藤自身も明確に意識している。

「評価の対象となることのない生活状況または人間関係に関する知識・情報」のコントロール権(阪本昌成)

阪本説では、プライバシー、プライバシー利益、プライバシー権という3つの概念を区別すべきであるとし、プライバシーとは「他者による評価の対象となることのない生活状況または人間関係が確保されている状態」であり、プライバシー利益とはプライバシーの「状態に対する正当な要求または主張をいう」とされ、ここではじめて規範的性格が概念に与えられている。
しかし、何故に評価の対象とされるか否かでプライバシーの有無を分けるのか、という定義付けの合理性が明らかでないと棟居は批判を加える。

「社会的評価からの自由」(佐伯仁志)

佐伯は、プライバシーの保護を、社会の評価から自由な領域の確保としてとらえるべきとする。個人の自律と「開かれた社会」を目的として、プライバシー保護の要否を機能的、目的・手段論的に判断すれば良いという基準論が表明されているものの、ここでもやはり、何がプライバシーであるべきかの答えは明らかでない。


以上は日本における学説を参照してきたが、米国におけるプライバシーの基礎概念に関する理論のうち、定義主義のアプローチについても検討したい。

フリード説

万人に秘匿された「プライバシー」情報を、相手を選んで与え合うことが親密な人間関係の形成にとり不可欠であることに着目し、伏せられた個人情報のカードを誰に対してどこまで開けて見せるかという選択の自由こそが、正にプライバシー保護を通じて確保されるべき実体であるとする。
したがって、プライバシーは親密関係ゲームに際して当事者のみならず局外者も遵守しなければならないルールとなる。

ラッシェル説

フリードがプライバシーを、もっぱら親密関係をそうでない関係と区別して形成するための手段と位置付けていたのに対して、ラッシェルはより一般的に、プライバシーとは、多くの親密でない関係を含むところの様々の種類の関係をこなしていくための手段なのだとする。

ライマン説

フリード説およびラッシェル説は、市場イメージを前提としているが、ライマンは親密な関係は情報の独占的な供与だけで形成されるのではなく、個人情報の共有を有意義なものにしているところの、相手に対する思いやり[caring]のコンテクストで形成されるとする。

上述のように、フリード説およびラッシェル説によってプライバシーの領域的イメージが払拭され、機能的な把握がなされるようになった。そしてライマン説は、機能論に向けられた領域説からの反駁と見ることができるだろう。また、ラッシェル説においては、プライバシーの概念が情報の内容やその質を問わず、多様な社会関係を形成・維持する機能それ自体の一部であるとされたことにより、社会システムの一要素として極度に機能主義的に再構成されている。したがって、プライバシー権は財産権に近似した自己情報の管理処分権として還元される。

「人間が自由に形成しうるところの社会関係の多様性に応じて、多様な自己イメージを使い分ける自由」(棟居快行)

フリード説およびラッシェル説においては、個人「情報」の開示と共有が社会関係の形成・維持の中核であることを前提としているが、それはデータそのものに過大な機能を期待しすぎではないだろうか、と棟居は指摘する。つまり、社会関係は開示コントロールによって操作されうる客体ではなく、複数の主体間で繰り広げられるシンボリックな相互作用と見るべきであろう。人々は生のデータでなく、人間相互のシンボリックな相互作用によって社会関係を形成するのである。伝えるのはイメージであって、生の情報そのものではないことに注意すべきであるとする。
ショーマン説においては、「観客の分離」「役割」などの概念を用いることにより、プライバシーの基礎概念を社会学的に明らかにし、ラッシェル説の「情報」コントロール権説的性格から脱却しようと試みている。つまり問題となるのは、社会関係ごとの役割イメージの使い分けである。この点を棟居説では重視する。
演技者にとって、当該演技の行われている演技者―観客のコンテクスト、すなわち当該社会関係の場に、それとは別のコンテクストにおける役割期待や役割イメージが持ち込まれることは、自己の役割イメージの混乱と崩壊、ひいては社会関係の失敗をももたらすであろう。そして、社会関係の自由な形成を妨げられないことは、人間の一般的行動の自由の一般として、憲法上の保障を与えられると棟居は述べる。

そこで棟居は、人間が自由に形成しうるところの社会関係の多様性に応じて、多様な自己イメージを使い分ける自由をプライバシーと呼ぶことを提唱する。
この考察に従えば、名誉侵害は同一の社会関係内部における役割イメージの「真偽」が問題となっているのに対して、異なる社会関係を横断するような役割イメージの侵害は、役割イメージがコンテクストから切り離して論じられない以上、その「真偽」を問うことはナンセンスということになり、したがって、名誉侵害の場合にのみ「真実の証明」による免責が制度上可能となる。

まとめると、棟居は「プライバシー」の基礎概念を明確化していない諸説を批判した上で、プライバシーを領域的イメージではなく機能面からとらえ、「人間が自由に形成しうるところの社会関係の多様性に応じて、多様な自己イメージを使い分ける自由」であるとしている。
自己情報コントロールとしていないのは、人々は生のデータでなく、人間相互のシンボリックな相互作用によって社会関係を形成するという前提に立つからである。


しかし、私見としては、棟居は人間相互のシンボリックな相互作用を主軸としながらも、ハーバーマス的な意味での「コンテクストの共有」という前提を何の譲歩や定義も抜きに話を進めている点に疑問の余地を感じる。社会システム論の観点からは、コンテクストは共有できなくともコミュニケーションは成立すると見るのであるから、自分の演じる役割イメージがそのまま観客に伝わっているとは限らない。このことに関する検討がなされていない点で、棟居の想定するプライバシー概念の範疇に含まれる利益が不明瞭であると感じる。保護すべきなのは、自分から見たときの自己イメージの使い分けなのか、それとも観客から見たときの自己イメージの使い分けまで含むのだろうか。

承認と自己拘束

さて、石川健治は「人格と権利」のなかで棟居説を引きつつ、イェリネックのコンセプトである「承認」と「自己拘束」を用い、イェリネックの公権論の構成を組み替えることによって、人権論と人格権論の再構成を試みようとしている。そして、棟居が問題としているのは現代における公・私のboundaryの移動であり、本来私的領域に属するものが公共の劇場にせり出してきた局面を、自己イメージを使い分ける権利として定式化したものでないかと指摘している。

イェリネックが論じた近代国家が行った自己収縮は、主権者であるということを止めないで、公益という目的によって自らの権利能力を限定するという形で行われる。他方で、そのような国家の自己制限により、国民は、国家=公共体とは離れたところで、私的自由を享受する。したがって、イェリネックの想定する<私>は、それゆえ、言葉の本来の意味でprivateな、<公>から剥離した<私>であった。近代人は<私>人としてのstatusと<公>人としてのstatusという、二重のstatusを生きることになる。<公>人としての国民は、権利保護を請求して訴えを提起するstatusをもっており、これに基づき訴権(権利保護請求権)を行使することもできるが、基本的に<私>的空間は公共性がゼロであるということになる。

しかし、このような古典的図式を懐疑的に見るのが石川の立場であり、むしろ今日においては、<公共>が国家からあふれだすにつれ、従来は<公共>から剥離した<私>の空間に属していた領域が、劇場化しつつあるのではないかという問いが提起されうる。その意味では、憲法学が繰り返し再現してきた<公共>は、新たな水準で拡大してきているのかもしれないし、それに応じて「プライバシー」概念を再構成する必要もあるのではないか。


石川によれば、国家による一括承認で問題が解決するというイェリネックの想定自体が現実離れしていたのであり、人間の「人格」が「社会」において承認されていない状態は、依然として解消されていない。そこで、何故人は深く傷つくのか、またそのなかで、人権による保護に値するのはどのようなものかということを考える必要がある。その考慮においては、承認と自己拘束という2つのコンセプトを石川は用いている。ただし、イェリネックのように国家による一元的承認を前提とするのではなく、承認のコンセプトを社会の多元的文脈へ拡張する。

ホーネットが「愛」・「法」・「連帯」という3つの承認文脈からdignitary harmを主題化しているのでそれを参照すれば、人間の個性を「人間」であることに伴う属性としてではなく、人間の固有性[Eigenschaft, property]として重視し、またその個性ゆえに他者を承認したり承認しなかったりするという文脈を指摘できる。そして、「人間の尊厳」や不可侵性とは、その実践的な自己関係の全側面において、主体が社会から承認されている事態にほかならず、そのもとで人間は自信や自尊心や自己評価といった積極的な仕方で自己に関係し得ると石川は述べる。自己決定権とは、実は、そうした社会関係のいくつかにおいて、他人に対して自己の行為の承認を求める権利のことである。

名誉権の構造について、連帯関係からの考察を欠かすことはできない。元々名誉とは「身分」に付着する文脈的な法益であり、法関係の文脈からは尽くせない何かが残る。外部的な評価との関係では、自己をどのような社会的ペルソナとして表現するかが、自己決定権と密接に結びつく問題であり、同時に、棟居により強調されているように、自己イメージを使い分ける権利としてのプライバシー権という関連をもちはじめていると石川は指摘する。


前記のアプローチは、石川自身が自覚しているように、法関係を全面化して近代世界を描き切ろうという人権論に内在する志向性が問われることになる。そして石川は結局のところ、「仮面を外す場所」の確保にプライバシー権を見るという、従来想定されてきた私的領域よりもさらに限定された範囲を指向している。家庭や夫婦の寝室ですら人は「父として」「妻として」などの仮面を付けうるのだから、そこは内心の自由に近似してくるように思われる。しかし、詳細は論じられていないので両者の区別がどのようにされているのか、あるいはされていないのかは不確定である。

*1:東京地判昭和39・9・28民集15-9-2317

*2:最判昭和56・4・14民集35-3-620

*3:最判平成7・12・15刑集49-10-842

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いろいろありましたが、ようやっと夏休みに入りました。
最近初めて会った方たちにも意外とこのブログの存在が知られているようで「半可思惟はやめちゃったんですか?」と聞かれることが多いです。
というわけで生存報告をかねて、ぼちぼち更新していきたいと思います。

受験生のための合格祈願FAQ

現在巫女バイトをしているため、受験生にお守りやご祈祷についていろいろな質問されることがあります。私自身、研修を受けなければ知らなかったであろう素朴な疑問が結構あったので、FAQ風にまとめてみることにしました。
「受験は実力勝負」…ではあるのですが、神仏にすがりたくなるのも人情でしょう。お守りを受けることで心が穏やかになったり、おみくじの言葉で自分の行いを振り返ったりするというのも良いかと思います。
というわけで、ご参考にしてくだされば幸いです。



〜お守り編〜

Q お守りってそもそも何?

A 古代、人々は石や鏡、剣など霊力のこもったものを身に付けていると、神様のお力によって災いから身を守れると信じていたそうです。それがお札やお守りに収斂するようになりました。
したがって、お守りは、神様の御分霊をお守り袋にお入れしたモノということになります。でも、モノであって物ではないので、巫女たちはお札やお守りを「一体、二体…」と数えます。


Q 受験生はどういうお守りを持てばいいですか?

A 「合格祈願」または「学業成就」のお守りをお受けになるのが良いでしょう。両方お受けになっても構いません。
神社によっては、資格取得のためのお守りなどもありますので、司法試験受験生や二回試験を受験する方はそちらをお受けくださっても良いと思います。


Q お守りって、たくさん持っていても大丈夫?

A 大丈夫です。ほかの神社のお守りやおみくじと一緒にしても構いません(俗に「神様がけんかする」と言われていますが、そういうことはないようです)。
ただ、普段から身に付けておくことを考えれば、あまり多くお受けになりますと、結果的にお守り(=神様)を粗末に扱ってしまうことになりかねませんので、そうなったら良ろしくありません。


Q お守りに期限ってありますか?

A お守りには消滅時効または除斥期間などに類する概念はありません。基本的には100年でも200年でも御利益があります。
とはいえ、お守りの袋が劣化すると神様に失礼です。そこで一般的には、お受けになってから1年くらいを目安に受けかえるようにと言われています。
受けかえる場合、各神社では、古いお守りを納めたり焚き上げたりする場所を用意していると思いますので、そちらへお納めください。


Q ほかの神社のお守りでも、納めて平気?

A 基本的には、お守りを受けられた神社にお返しするというのが最善です。そうは言っても、遠方の神社などですと大変ですよね。そういう場合は、近くの神社に納めても大丈夫のようです。詳しくはお近くの神社にご相談ください。
ただし、神社のお守りをお寺に(あるいはその逆)納めるのは良くないとされています。神事と仏事では手順などが違うため、神様も仏様も混乱してしまうから、らしいです。


Q お守りはすごく欲しいんですが、出かける服もないしインフルエンザも怖いし、外に出られません!どうしたらいいですか!?

A 実際に参拝するのがベストです。でもご参拝いただくのが難しいという方のために、神社によっては、代わりに絵馬を奉納したり、お札やお守りを郵送してくれるところがあります。詳細は神社に問い合わせてみてください。
とは言え、受験のときには外出しなければいけませんので、予行演習やリハビリだと思って、お出かけしてみてはいかがでしょうか?




〜絵馬編〜

Q 絵馬ってなに?どうすればいいの?

A もともとは、神様にお願い事をするときなどに生きた馬を納める風習がありました。それを簡略化し手軽にしたものが絵馬です。馬を納める代わりに絵馬を納めるのですから、絵馬はお願い事を書いて神社に納めなくては、お願い事が通じません。
納めるときには、絵馬を掛けるための場所が用意されているはずですので、そちらに結んでください。



〜おみくじ編〜

Q おみくじの「良い順」ってどんなでしたっけ?

A おみくじの吉凶の順番については一般的に
大吉>吉>中吉>小吉>末吉>凶
と、吉を中心に大中小が展開している神社が多いそうですが、神社や地域によって違うようです。
順番の善し悪しというよりも、おみくじに書かれている内容を重視して、生活や行いを見直すということをお勧めします。


Q おみくじって神社で結ぶべき?それとも持ち帰るべき?

A 神社の納所で結んで行っても、お持ち帰りいただいても、どちらでも結構です。
ただ、お持ちいただく場合は、粗末にならないように注意してください。



〜ご祈祷編〜

Q 受験するのは来年で今年じゃないんですけど、そういう場合、いつ祈祷してもらうべき?

A 受験直前より、受験を志した時など、なるべく早い時期にお受けになるのが良いとされています。ですから、今年をお勧めします。
来年無事合格されたあかつきには、ご報告とお礼のお詣りをしましょう!


Q お礼の参拝ってどうすればいいですか?

A お礼の気持ちを込めれば、普通の参拝で大丈夫です。
ただし、神社によっては満願成就や合格御礼専用のお詣りを受付しているところもあるようです。詳しくは参詣した神社にお問い合わせください。