無印良品にみる逆説的記号論

青木貞茂は「記号化社会の消費」*1のなかで、大ブランド時代は終わったかもしれないが個別差異化した小ブランドの世界は健在だとして、無印良品についてこう言及しています。

無印良品は、一流メーカーの商品に対する量販店のノーブランド商品である。(略)無印良品のみが、たいへんな成功をおさめ、新聞記事のネタになり、青山の店では有名コピーライター、デザイナーが買いに行くという神話まで生まれた。ノーブランド商品がブランド化してしまったのである。記号論でいう有徴化=「徴つき」に無印良品がなってしまったのである。いわば、ノーブランドのブランド化というメタブランド現象が起きているのである。

記号に溢れるなかで記号がないということは、メッセージ性を持ちえます。カラフルな背景だと白い文字が浮き上がって見えるようなものです。穿った見方をすれば、「ノーブランド」という記号を欲して無印良品を買うのは、記号がないという記号を付けているということなのです。*2


無印良品を購入することは、「ブランドに盲目的でない、合理的で知的な生活を営む自分」を他者と区別し表示するという行為である。つまり、もう一つ別の体系への変換である。

と青木は指摘し、レビィ=ストロースのトーテム化との相同性を考察しています。
ちっぽけなロゴが付くことで、同じような商品と比べて数倍高くなることは、非合理的だと思うこともあるかもしれません。でも実はそうでもないのです。

フランスの構造人類学者の創始者であるレビィ=ストロースは、未開人のトーテムは、わけのわからない混沌ではなく、非常に複雑で精密な思考体系・論理構造をもっていることを明らかにした。レビィ=ストロースによれば、「トーテム表徴とは結局のところ、ある体系から別の体系に移ることを可能にするコード」である。レビィ=ストロースの定義に従えば、トーテム化した商品を購入し、使用することは、ある体系(ブランドにこだわりをもたない人の集合)から別の体系(あるブランドを選択するたしかな目をもった人の集合)への変換を表しているのである。

無印良品を使うことは、「あるブランドを選択するたしかな目をもった人の集合」から「ブランドに盲目的でない、合理的で知的な生活を営む人の集合」へ移行することを可能にするコードなのです。
それはベンヤミンの言うところの「使用価値から交換価値」への転換を意味します。商品のアウラで消費者を酔わせ、必要によって買わせるのではなく必要を見出させることによって買わせるのです。必要でないけれどひとめぼれして買いたくなることってありますよね。


鹿島茂は、『デパートを発明した夫婦 (講談社現代新書)』において

商業のアーチスト、魔術師で終わっていたら、ブシコー*3は時代を画した天才ではあっても、時代を超えた天才ではなかっただろう。ブシコーが真に偉大だったのは、商業とは「商品による消費者の教育」であると見なしていたことである。
すなわち、消費者に、より豊かなハイ・ライフという目標を設定してやって、そこに到達するよう叱咤激励してやること。実はこの教育的な側面が存在していなかったら〈ボン・マルシェ〉の本当の意味での発展はありえなかったはずである。
(略)
こうして消費者は、デパートの声援を受けて、ワン・ランク上の生活を目指して、懸命に働き、その稼ぎをデパートという学校に授業料として納入することになった。

と述べ、使用価値から交換価値への転換を、デパートの陳列棚を通じた「教育」によって行ったことを指摘しています。その上で、ブシコーがデパートの店員自身をブルジョワ化させたことを書いています。

それまでは、学のないがさつな人種とみなされていた店員を、利益循環システムと段階的昇進システムの導入によって、誰よりも礼儀と謙譲を身につけたブルジョワブルジョワに奉仕するブルジョワ、ひとことで言えばホワイト・カラーという存在に変えることを目指したのである。

*1:1985年 HBJ出版

*2:無印良品はデザイン的に優秀だと感じますから、そこに惹かれて購入する方も多いとは思いますが。

*3:引用者注:ブシコーはボン・マルシェというデパートの創業者