... And one fine morning ―

展覧会が本当に目前に迫っていて本来なら死ぬ気で絵を描かなくてはいけない状況ではあるけれど、筆が動かないので最近思うことをつらつらと書いてみたいと思う。



グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

まず村上春樹訳のグレート・ギャツビーを最近読み終えた。私にとっては早朝にあたる8時の満員電車のなかで、急停車する度に転びそうになりながら読んいて、最後の文に辿り着いたとき泣きそうになってしまった。ギャッツビーがあまりに切ない。cedさんが村上春樹訳と英文を照らし合わせて引用しているので、ここではそこからさらに孫引きしてみよう。

 ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――


 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。


デイジーも一度はギャツビーに魅かれたのだけれど、でもそれは彼自身ではなくてそのお金に対してだった。デイジーがギャツビーの豪邸に遊びに来て、ギャツビーの部屋でシャツの海のなかで感動する場面があるけど、彼女が感動したのはギャツビーのその豪華絢爛さであって、彼自身ではなかった。そして人妻となってしまったデイジーを追いかけ続けたギャツビーだって過去の彼女を取り戻したかっただけで、それは偶像を求めていたに等しい。それらがとても悲しい。あと、とりあえずトムは最低だ。
まあ著者の自伝的要素が強いとなるとトムとデイジーの行動を少し冷静にとらえてみるべきなのかもしれない。でも問題を起こしてひっかきまわしておいていざとなるとどこかへいなくなって、後のことはすべて他人任せ、しかも自己正当化を無意識にしてしまう人って結構いるような気はする。そうすると善人なキャラウェイみたいな人が苦労するわけなんだよね*1。とても迷惑な、でもありがちな話だ*2

僕には彼を許すこともできなかったし、好きになることもできなかったけど、少なくともトムにとっては、自分のなした行為は完全に正当化されているのだということがよくわかった。すべてが思慮を欠き、混乱の中にあった。トムとデイジー、彼らは思慮を欠いた人々なのだ。いろんなものごとや、いろんな人々をひっかきまわし、台無しにしておいて、あとは知らん顔をして奥に引っ込んでしまう――彼らの金なり、測りがたい無思慮なり、あるいはどんなものかは知れないが、二人をひとつに結び付けている何かの中に。そして彼らがあとに残してきた混乱は、ほかの誰かに始末させるわけだ…… (p322)

さて話は変わって、上山さんが

不登校・ひきこもりという「逸脱」について、
近代主義との関係における思想史的位置づけが必要であり、
むしろ、症候的逸脱の形をとった倫理的契機について、検討すべきだと思う。
個体を内発的に個人化する契機としての症候。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070209#p1

ということを仰っている。
ずっと昔にフロイトの『精神分析学入門』を投げ出して以来心理学などに疎い私からするとほとんど解読できないから、以下は一文目前段に出てくる単語に反応しているだけだ*3


不登校に近似するものとして保健室登校がある。登校はしているのだが教室には行けなくて保健室にずっといるという状況を指すわけだが、ではどうして保健室なのだろうか。教室には行けなくても保健室なら行けるという理由はなんだろう。
その理由は、近代という文脈で言うと、保健室が学校という枠組みの中で逸脱を許されたほぼ唯一の場所だからである。学校に行きたくないということと、学級に参加したくないということは違うことだ。
学校は存在意義からしてとても近代的な場所だ。大人ではない存在を労働の阻害要因にならないように格納し、そして大人にすべく教育する。そこでは進歩が前提とされ、そして強迫的に成長を求められる。昨年と同じであることは基本的に許されない。
また同様に、病であることも基本的には許容されない空間である。欠席は異常なことで出席は正常なことというのが前提にある*4。だいたい制服だって不思議な存在だ。あれは汚れるということをあまり認められていない衣服なのだから。でも、保健室は病であることを正面から認めている場所だ。逸脱を許容してくれる空間のように感じられても不思議ではない。



でもやっぱり明日はもっと速く走ろうと願わずにはいられないんだよね。その願望自体が症候的でないかどうかに興味はなくて、流れに立ち向かうのにちょうど良いからというだけ。
ほとんどの人は、自分が「ある晴れた朝」を迎えたと思いたいがために、陶酔に満ちた未来を恣意的にあるいは事後的に設定する。永井均はこう言う。

幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったとき、チルチルとミチルは、もともと家にいた鳥が青いことに気づく。チルチルとミチルの以後の人生は、その鳥がもともと青かったという前提のもとで展開していくことだろう。それは、彼らにとって間違いなく幸福なことだ。自分の生を最初から肯定できるということこそが、すべての真の幸福の根拠だからだ。だからわれわれは、そういう物語を、つまり『青い鳥』を、いつも追い求めている。だが、この物語は、同時に、それとは別のことも教えてくれる。つまり、――その鳥はほんとうにもともと青かったのだろうか?それは歴史の偽造ではないか?

解釈学的探求は自分の人生を成り立たせているといま信じられているものの探求である。だから、もし彼らに自己解釈の変更が起こるとしても、それは常に記憶の変更と一体化している。ここでは、記憶が誤っていることは、ことの本質からして、ありえないのだ。

もともと青かったという記憶自体が、そして、そう信じ込んで生きる彼らの生それ自体が、ほんとうは青くなかったというその事実によって作り出されたものなのかもしれない。記憶は、真実を彼らの目から隠すための工作にすぎないのかもしれないからだ。これが、過去に対する系譜学的な視線である。

それは、これまで区別されていなかった実在と解釈の間に楔を打ち込み、解釈の成り立ちそのものを問うのであり、記憶の内容として残ってはいないが、おのれを内容としては残さなかったその記憶を成立させた当のものではあるような、そういう過去を問うのだ。だからそれは、現在の自己を自明の前提として過去を問うのではなく、現在の自己そのものを疑い、その成り立ちを問うのであり、いまそう問う自己そのものを疑うがゆえに、それを問うのである。
転校生とブラック・ジャック―独在性をめぐるセミナー (双書・現代の哲学)

でも系譜学的認識は解釈学化と隣りあわせ。現在の自己を疑い、自己を成り立たせていた記憶を探索する中で得られた記憶を使って、新たに自己の実在性をもたせてしまったりする。そして系譜学的な視線を持ち続けることは結構しんどい。過去の過去性を成り立たせるために、現在の自分を成り立たせる解釈や、あるいは現在の自己を疑って得られた記憶と距離を保っていかなくてはいけないというメタメタな状況に踏みとどまらなくてはいけないからだ。
ある晴れた朝を求めてしまうよりも両腕をもっと先まで差し出そうとしてる方がずっと楽なんじゃないかな。

*1:でも杜子春みたいになってるのは仕方ないことで、別に非難すべきことではないかなと思う

*2:いつもすみません

*3:だいたい思想史的位置づけってなにかよくわかっていない

*4:皆勤賞といったかたちで称揚されることの裏読みをすれば、そうではないのかもしれないが