意識に直接与えられているものについての試論

時間と自由 (岩波文庫)

時間と自由 (岩波文庫)

アンリ・ベリクソン*1は『意識に直接与えられているものについての試論』*2において「持続(Duree)」という概念を確立しました。


ゼノンの詭弁をご存知でしょうか。一番有名なのは「アキレスと亀」ですが、ベリクソンが話題にしているのは矢のたとえです。飛ぶ矢のパラドックスと呼ばれる命題は、運動の捉え方の問題と言って良いでしょう。
飛んでいる矢はもちろん進んで動いているわけですが、ゼノンはそうではないと言います。飛んでいる矢と見えるかもしれないが、ある瞬間を規定すればある空間を占めることになりますよね。そしてまた矢は次の瞬間においても別の空間を占めていることになります。放たれて宙を進み落下するように見えても、それは結局静止した点(矢)の集合であって運動ではない、運動と静止の区別はつかなくなる、というものです*3


でもベリクソンはゼノンの詭弁を批判します。だって矢を宙で止めたら落ちるじゃないか、運動はよどみなく流れていくものだよ、と。

ゼノンのように運動を等質の分割可能なものとみなすかぎり、それは運動そのものを考えることにはならず、運動の行われた空間、運動体の軌跡のみを考えることになり、運動体が次々に移動した位置の上に、いかに多くの微分的な点を設定しようとも、運動そのものをとらえたことにはならない

ベリクソンは運動を微分みたいに分割してはりつけて静止させてしまうことを「空間化」と呼びました。そしてそこから敷衍して、ベリクソンは時間について考えます。


例えば勉強嫌いでいたずら好きな生徒がいたとして、その子が授業を短くしたいと思って、授業中先生に気付かれないように教室の時計の針を30分進めたとします。それでその子は先生に言うわけです。「先生、もう授業時間は終わっていますよ!」。でもこの先生はいたずらに気が付かないでしょうか?30分くらいなら普通「あれ?おかしいな。そんなに時間はたってないはずだけど…」と思うはずです。


ベリクソンは、これを意識で時の流れを感知しているから気付けるのだ、と考えました。意識が途切れることなく流れて進んでいるからこそ時の流れを感知できたのだ、としています。そしてこのことを「持続」と名づけました。


持続は物理学的な時間とは違います。物理学的な時間は計量思考になじむものですが、持続はそうではありません。計量化できず客観化もできない、しかし主観的なだけのものではないとも言っています。
また時間と意識は相互浸透しながら進むとしていて、なんというか全体として音楽的という点で『存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)』との関連性を考えないといけない気がしますが、けれどもこれはまた別の話、いつかまた、別のときにはなすことにしましょう。

*1:Henri Bergson,1859〜1941

*2:Essai sur les donmees immediates de la conscience, 『時間と自由』

*3:数学の微分を想起してみてください