「近代」を生きる人間の戯画と、生死の間に咲く花

2005年に書いた文章を掲載。
いまでもこういう図像学っぽい解釈をときどきします。




『モモ』が岩波少年文庫で出版されることにともない、日本語訳に一部訂正が加えられた。そのなかでも注目すべきが“Zeit ist Leben”の箇所である。旧訳では「時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。」*1となっていたが、新訳において「時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。」*2に改められたのだ。つまり「生活」が「生きるということそのもの」と「人のいのち」に変えられている。Lebenは英語で言うとLifeであるから、訳者の語彙選択の腐心が察せられるが、本文ではこの違いについて考えていきたい。


まずLebenに「生活」という意味を持たせるなら、灰色の男たちと対比して考えなければならない。作中で、床屋のフージー氏は灰色の男たちの計量思考に触れ、自分の生活の価値を疑い、すべてが無価値か等価値である(がゆえに交換可能である)との認識をもつに至り、自分の生活をコントロールしはじめる。これは「近代」というパラダイムを生きる人間の戯画であると言える。そして灰色の男たちは「近代」の象徴、さらに言えばオブジェクティブなものの象徴である。


「近代」において合理主義が極限まで推し進められたため、デカルト的(であるとされている)二元論すなわち精神と物体、主体と客体、主観と客観を完全に切り離す思考が広まり、さまざまなものが計量され、記述された。すべて、人間自身を含めたすべてのものが計量の対象であるという考えは、すべては制御できるという考え方をももたらすことになった。だが、そこでは生活の意味もしくは自分の生活であるという観点が抜け落ちてしまう。「時間とはすなわち生活」であることを失念して灰色の男にまるめこまれてしまったフージー氏のように。時間を節約することで削られていくのは生活の質および自分自身の意味なのである。


また「まるっきり見分けのつかない、同じ形の高層住宅が、見わたすかぎりえんえんとつらなっています。建物がぜんぶおなじに見えるのですから、道路もやはりぜんぶおなじに見えます。」*3という箇所に暗示されているように、合理的であるということは普遍、すなわち(答えが)常に同じになるということだ。さらに、大部分が合理的に管理されれば、特殊の砦となるはずの部分でさえ凡庸にならざるをえないのである。まがりくねった道も娯楽も秘密でさえ理詰めと無関係ではいられない。そこに個という豊かさはない。
エンデは以上のようなことを灰色の男たちを通じて風刺しているのだ。


一方、Lebenに「生きるということそのもの」もしくは「人のいのち」という意味を持たせるなら、『モモ』における次の箇所を念頭に置かなければならないだろう。モモが「時間のみなもと」を見聞きする場面である。「天井のいちばん高い中心に、まるい穴があいています。そこから光の柱がまっすぐ下におりていて、そのま下には、やはりまんまるな池があり、そのくろぐろとした水は、まるで黒い鏡のようになめらかで、じっと動きません。(略)それはおごそかな、ゆったりした速度で動いているのですが、よく見ると、黒い鏡の上を行きつもどりつしている大きな大きな振子でした。」*4


これは単なる直観にすぎないのだが、「光の柱」は生、「くらい池」は死、「星の振子」は情と理の寓喩だと思う。フロイト精神分析における術語とギリシア哲学の術語を用いれば、エロス(生)とタナトス(死)、パトス(情)とロゴス(理)である。人は、情と理の間を行きつもどりつして絶えず揺れ動いている。その躍動によって、黒く動かない死の水鏡から生の光のなかで美しく唯一無二の時間の花が咲く。それはスウィング一回一回で咲いては枯れる。過ぎ去って戻って来ない時間は、だからこそ限りないアウラを放つのである。例えば、何かにとてつもなく集中して取り組んでいるときには気がつかないうちに長い時間が経過していることがある。これは理と情のバランスがとれていて、生の極限までいくと、死に限りなく近づいているためそう感じるのだ。質は違うが、同じ丸い形をする光と水のように。(両者は表裏一体でどちらかだけでは存在できない。)その熱中していた時間は振り返れば、とても貴重で美しい。おそらく灰色の男たちはこの星の振子を理の側にだけ傾けさせることで振子の動きを制約し、時間の花を奪っていたのだろう。つまり、本来はよどみなく流れるはずの運動を静止させて空間化し物理学的な時間に近づけたのである。


さらに生である光は音楽でもある。「丸天井のまんなかから射しこんでいる光の柱は、光として目に見えるだけではありませんでした―モモはそこから音も聞こえてくることに気がついたのです!」*5これはアンリ・ベリクソンの「意識に直接与えられているものについての試論」で言うところの、意識で時間の流れを感知する、という部分に相当する。意識は切り取ることができないでよどみなく進む。メロディーは、もちろん音の羅列にすぎない面もあるが、それを一連の音楽と捉えることによって分割できないものとなる。メロディーすなわち宇宙や世界を一連のものとして認識する意識こそ、「私」なのであり、メロディーが時間の花を死から呼び出して形を与えている。人は世界・生への憧れから時間の花を咲かす。だから「生きるということそのもの」とは全世界が自分に語りかけてくれたことばに「耳をすます」*6ということになるのである。

*1:『モモ』M.エンデ著、大島かおり訳、岩波書店、1994年、第50版、P75

*2:『モモ』M.エンデ著、大島かおり訳、岩波書店、2005年、第2版、P83

*3:同上、P105

*4:同上、P239

*5:同上、P242

*6:みみをすます (福音館の単行本)」をさしている