憲法改正の限界について

前回前々回と続けていた財産シリーズは一時お休みして、今回は憲法改正と民主主義のお話です。
id:chaturangaさんが「憲法改正限界説に関する素朴な疑問」というエントリのなかで、以下のような問題提起をなさっています。

九十六条には、変えられないものがある、とは明記されていません。
条件をクリアすれば変更可能、という条文に、でも変えちゃいけないものもある、という書かれていない暗黙の理屈がついているというのは、これはこれで条文の不備ではないかと思えます。
それ以上に、この学説で奇怪なのは、国会議員や国民の良識、そして民主主義的な多数決による結果を尊重しない、ということです。こちらの方こそ、現日本国憲法の「基本原理・根本規範」である民主主義に抵触してませんか?
謎は深まるばかりです。

http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20070804/p2

憲法改正を規定する96条には、「ここだけは変えちゃだめ」という改正の限界なんて書いてありません。仮に限界があるとして、変えたいという国民の気持ちを無視するような結果になるとしたら、それって民主主義に反するんじゃないの?という疑問です。

能力的限界から説明する

まず第一に、憲法国民の良識に期待していません。もっと強く言うと、信用していないのです…。むしろ国民の良識に頼らなくても良いようなシステム作りを目指していると言えます。「間接民主制は直接民主制の代用ではない」ということは以前のエントリで述べました。


民主的というのは民意をまっすぐに反映するのが最も望ましい…確かにそうかもしれません。でも、よく考えてみてください。フランス革命直後の熱狂と恐怖政治、ナチスドイツ政権下におけるポーランド侵攻…国民の圧倒的支持を受けて行ったことのなかには、こうしたことも含まれています。
私たちは政治のことだけを考えて生活しているわけではありませんし、すべての分野や地域情報に精通するというのも時間の有限性を考えると難しい。当たり前のことですね。そして私たちは愚かです。集団になるともっと愚かになりうる。

建国の父たちは、大衆の情熱や偏見を極端に恐れていた。政府が大衆の欲望をそのまま法律にしないように願ったわけだ。実際、建国の父たちはフィルタリングに理解を示した。(中略)大衆の欲望を「フィルタリング」する制度をつくろうとした。そうすれば、公共の利益を促進する政策が確約される。こうして代議制やチェックとバランスというシステムが、国民と法律の間のフィルターになるように考案された*1

これは、端的に言うとノリと勢いで多数の意見が通ってしまうことを恐れているということです。「都合のいいように集められた一部の意見をスナップ写真のように見せる」*2ことで、断片的で偏っているかもしれない情報をもとにして、瞬間を切り取るように判断する。これって十分ありうる事態で、現在でも直面している問題です。
そういうわけで憲法の根底には「大衆の情熱や偏見」を恐れる部分があります。だからこそあえて討議型民主主義を選択しました。よって、多数の国民の意思を尊重しないからと言って、すぐさま憲法の理念であるところの民主主義に反するというわけではないのです。

国民主権の意味から説明する

以上の議論は、たいていの国の憲法に共通するものです。日本国憲法は、権力の行使を国民の代表者が行うものと規定し(前文1段)、また国会が唯一の立法機関であるとしています(41条)。
でも、憲法改正って国民投票である以上、直接民主制じゃないの?という疑問もわいてくるかもしれません。民主主義に基づく憲法は、国民の憲法制定権力(制憲権)によって作られました。ですからもちろん、論理的に考えれば、主権者である国民が国の政治のあり方や憲法のあり方を最終的に決定する権力を持っているという見解もとれます。
しかし例えば「憲法改正投票権は18歳以上の国民にある」と規定したとします。そうすると、全国民が18歳以上の改正権がある国民と、そうでない国民とに二分されてしまいます。これって治者と被治者の自同性が保たれなくなったということで、自己矛盾ですよね。
ですから、憲法改正権は、制憲権が憲法典のなかに吸収され制度化されたものと考えるべきでしょう(96条)。

憲法改正の限界

では、本題に入りましょう。憲法改正の限界は存在するのでしょうか?
ここで登場する独立変数は2つ、「自然法または根本規範」と「制憲権」です。制憲権については既に説明しました。憲法を制定する権力であり、現在は憲法典の外にあって、実定法上の力はないもののことです。「自然法または根本規範」とは、場所や時間による制約を受けることなく普遍的に存在しているきまりのことです。正義とか道徳とか抽象的な概念に近いものだと思ってください。

さて、自然法とか根本規範(以下、まとめて自然法とします)と呼ばれるものって、本当にあると思いますか?自然法なんてない、という立場のことを法実証主義と言いますが、ここで立場が自然法のあるなしで二つに分かれます。そして、制憲権を憲法改正権と同じだと捉えるか、それとも違うものだととらえるかによっても立場が二つに分かれます。
自然法がある」と考えると、憲法制定権は自然法の下位概念になって、自然法の拘束を受けることになります。そのなかで「制憲権=憲法改正権」という立場をとると、改正権もやはり自然法の制約を受けることになり、限界があるということになります。「制憲権≠憲法改正権」という立場をとるとしても、改正権も自然法の制約を受けることになり、限界があるということになりますね。
では、「自然法なんてない」と考えるとどうなるでしょう。そのなかで「制憲権≠憲法改正権」という立場をとると、既に述べたとおり、憲法典の外にある制憲権を内部に取り込んで制度化し、憲法典の改正を決定する権限を国民に与えた、ということになりますから、憲法改正権は制憲権による制約を受けることになります。具体的には、改正権の基盤となる制憲権の所在すなわち国民主権は、論理上変更できません。しかし「自然法を認めない」と考え「制憲権=憲法改正権」と、憲法改正は制限なくできるということになります。


以上のことを頭に入れた上で、学説の状況を俯瞰します。
憲法改正に限界がないとする説は2つに大別でき、法実証主義的無限界説と主権全能論的無限界説とがあります。
実証主義的無限界説は、憲法も法律の一種なんだからいくらだって変えられるでしょ、というかなりラディカルな立場です。憲法自然法的な規範も同列に扱い、法律が社会情勢を基礎として存在している以上、時代と合わなくなったものは改正するのが当然、としています。
主権全能論的無限界説は、もう少しソフトです。改正権と制憲権を同視し、制約を受けないというものです。この説をとる人のなかには、改正権が制度化されていることに注目して、憲法の定める改正手続きにのっとらないものは認められないと主張する人もいます。裏を返せば、改正手続きという制約はあるけれど、それ以外は無制限とする立場です。
憲法改正には限界があるとする立場は通説ですが、細かく見ると2種類あります。法理論的・憲法内在的限界説と自然法的限界説です。
前者は、改正権は憲法によって与えられた権力なので、主権規定とそれに関連する原理は変更できないとします。また後者は、制憲権も自然法のもとにあるのだから、自然法に反する改正はできないとしています。


改正に限界があるとなると、前述のように、制憲権の所在のある国民主権原理は動かせないことになります。これはガチですが、国民主権と関連した原理である人権尊重主義や平和主義は議論のあるところです。さらに、憲法改正規定も、憲法典を維持させるためにある規定なので、形式はともかく少なくとも実質を変更することはできないと考えられています。

まとめ

  • 憲法は「大衆の情熱や偏見」を恐れるからこそ、討議型民主主義(代表民主制)を選択
  • 憲法改正権は、個々の国民が持ってるものではなく、制憲権が憲法典のなかに吸収され制度化されたものと考えるべき
  • 制憲権が万能で、かつ憲法改正権=制憲権と考えたときのみ、改正に限界なし
  • 限界があるとした場合、国民主権原理と憲法改正規定は改正できないことに。また、国民主権と密接に関わると考えられる原理も変えられなさそう


最後に、上記の議論は純粋に、理論的なお話です。まあ、事実上は手続きに従えばいかなる内容の改正もできます。でも、憲法改正を考える上でこうした論理的側面を頭の片隅に置いていただければ幸いです。