フリーライダと「小さな政府」

3日に学祭が終わりました〜。
準備もなんとか間に合い、来場者数が過去最高を記録しました!
また渉外の仕事をはじめたり、打ち上げで幹部交代式があったり、OB飲みに参加したり・・・。
とにかく忙しかったです。


ところで学祭の準備中、同輩にこんなことを言われました。
「inf.頑張りすぎやで?そんなやらんでも、誰か他の人がやってくれるちゅーが」
・・・。
「はあ!?君がそう思ってるから私に仕事がまわってくるんだよ!ふざけるなボケーー!!」と余裕がなかったせいもあり、本気で切れてしまい、手元にあったメジャーを投げつけました。
・・・忙しさって罪だなあ(遠い目)*1


でも冷静になって考えてみると、これってフリーライダの理屈と一緒ですね。


フリーライド(ただ乗り)で一番端的な例は灯台です。
灯台は航行の安全確保のために必要なものですが、灯台で商売はできません。なぜなら灯台は光を放つことで位置を教えてくれますが、その光はお金を払ってくれてるユーザだけに届けることができないからです。つまり利用者を選別したり制限したりできないため、お金を払っても払わなくても同じサービスが受けられる。そうなれば、誰もわざわざお金を払おうとは思いません。船乗りみんながフリーライドしようとするのは経済学的には当然の帰結と言えます。だから本当は私も仕事をサボってしまえば良かったのですね〜。


でももし船乗りみんながフリーライダになったら、灯台は出費ばかりで利益がありませんから、運営が立ち行かなくなります。しかし灯台が無くなってしまえば、海難事故が続発して、結果的に船乗り自身に不利益が生じることになる。


以上のような観点から、経済学者の一部は国家および政府の必要性を考えています。彼らは非常に市場を信頼する立場をとりますが、その限界も認識していて、市場(需要と供給の関係)だけでは限界のある部分*2のみ国家が事業として行えばよい、と考えているのです。これが「小さな政府」観に繋がってきます。もう一度まとめると、経済学的「小さな政府」観は「基本的にほとんどすべては市場に任せればうまくいくけど、一部でどうしても市場じゃ無理なとこがあるから、そこだけ政府とか国家に任せましょう」ってこと。
私は、だから無償で政府の役割を果たしてたことになります。偉いぞ、自分!


もちろん、この考え方にはいろいろな方面から疑問の声が上がっいます。それは「経済格差はどうするの?」とか「郷土愛を広めなくちゃ」とかいろいろと濃淡があるけれど。*3前者の場合なら、「自由」と「平等」が比べなきゃいけない価値観として浮かび上がることになる。福祉事業を充実させたりして「平等」を重んじるのは、ある面で経済的自由を規制することに繋がります。でも「平等」を重視しすぎると、みんなのやる気が下がって経済活動が停滞してしまい、福祉をする余裕がなくなったりするとも考えられます。


小泉さんが内閣改造したけれど、こないだの選挙でこういうことを考えて、自分の立ち位置を選択した人ってどれくらいいるんだろう?とりあえず「規制」はだめで「自由」はいいっていう素朴なイメージだけで選んではいけないんじゃないかな。
逆に言えば、自由を自明視できない現状があるということで、それはまた次に。

*1:ごめんね、とこの場を借りて謝っときます。

*2:公共財におけるフリーライダの問題以外にも「市場の失敗」などが挙げられます

*3:でも基本的に、政府がこの「小さな政府」の役割は果さなくてはいけないというところでは合意してるみたい。