ネットと管理、それから意欲

さっそく出来るようになったブックマークを活用してみます。というより使ってみたいだけだったりするのですが・・・

吉松さんいわく、その先生がSFCの学生に対して「誰がインターネットを管理すべきか?」というアンケートを行ったところ、6割の学生が「国」と答えたとのことでした。
(さくっと略)
個人的には、インターネットというものが、誰かに管理されるのではなく、様々な人に参加のチャンスがあり、しかもお互いのコミュニケーションの中で利用のルールが決まっていく世界であって欲しいという想いがあります。そういう世界を作るのには、これまでにも様々な人の労苦や多大な費用がかかっていたわけで、その貴重な場が失われることに非常に危機感を持っています。
(また略)
現実の政治でも昨今、月並みな言葉ですが「社会への参画意識の欠如」が問題になっていますが、いつもトップダウンで降ってくるものをどうこなすか?と考えるところから、大勢が、自分達で社会を創っていくにはどうしたらいいのか?という風に、大変でもコストを遣って、自分の望むものに近い世界を作っていく自由を手に入れることに魅力を感じるようになっていかないものかと思っています(でもここは難しい問題で、システムに慣れてしまった人にはそれが非常に心地よい世界であることもあるんですよね。映画の"Matrix"じゃありませんが、現実に気づかない方が幸せ、という人もいるわけで、悩ましいところです...)。

「インターネットは誰のものか?」 御手洗大祐 Log The Endless World http://www.huis.gr.jp/~mitarai/archives/000193.html


御手洗氏は「今のインターネットはベストではないと思う」と保留しつつ、ネットが自由であったから「こんなにいろんな人が新しいことに挑戦出来」たのだと仰っています。
私もこの点について深く同意します。
現在享受しているネット上の自由はアプリオリなものではありません。自家引用しますが

ネットが規制可能かどうかは場合によるし、規制が不可能か可能かはそのネットのアーキテクチャによって決まるよ、と。ネットワークの規制・制御のしやすさは設計によって変えられる。変えて、規制しやすいネットワークにできるし、それはインターネットのコード群にコントロールを可能にするようなプロトコル群を追加するだけで成り立つ(らしいです)。

http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20051014/1129300973


このことは最近よく指摘されていますね。*1「思考の枠を規定するグーグル」などを読んでみてください。


このような管理/規制に対する態度として、「誰かに任す」か「自分でやる」の2つがあります。*2
そして「自分でやる」という場合には、2つの異なる理由が考えられます。ひとつは「自分で何かを作り上げるのは楽しいから自分で」ということであり、もうひとつは「他の人に決められてしまうのは何か嫌だから自分で」ということです。この2つの理由は似て非なるもののように感じます。何となくですが・・・前者については娯楽、後者はプライドが本質なのではないかと思います。


前者についてですが、創作は楽しいものだという前提に立てば、サイバースペースほど楽しいものはなかったでしょう。そこではルール作りというより、もうひとつの世界を作り上げるような楽しさがあったからです。御手洗氏が言う「そこに繋ぐ人達がルールを決めてきた世界だったわけで、自分たちが世界の創造に参加できるという」ワクワクがあったわけです。
過去形で書いてみましたが、もちろんこのような楽しさは今もきっちりとあります。しかし「現在のように一般のインフラとして普及すると、参加している、というよりは便利だから使っている、という感覚になる人が多い」のが現状なのです。既にある環境の一部として受け止められるようになれば、一から作りあげるという面白みは薄くなってしまうように思えます。つまり「自分でやる」ことの大きなインセンティブになりにくい。


後者についてはプライドの問題だと言いました。プライドとはこの場合「どこまで自分が世界と関わっているのかという意識」というような意味です。
これは意地と惰性に左右されています。どういうことかと言えば、例えばあなたが食品添加物が健康に及ぼす被害について大変関心をよせていたとします。あなたはラベルを見て情報を得ることもできますが、「いやいや、メーカの言ってることなんて信じない」という態度を取って、自分で科学的調査を行うこともある程度可能なわけです。そして食品添加物だけでなく農薬や原材料の産地など様々な分野も残っています。
つまり何が言いたかったのかというと・・・人によって興味のもてる分野も程度も違うし、全ての分野や全ての状態を把握することが不可能であるなかで、執着するものごとの選択はとても恣意的なのではないかという話です。自分でも話しててよく分からなくなってきましたが・・・。


また「社会への参画意識の欠如」については、折りしも、友人との会話で話題になっていたところでした。
「今の学生/若者はやる気がない」とか言われますが、それはなんだか正面から反応したりするのが面倒くさいし(他にやりたいことがある)、気を使ってる(相手を否定したりするのは悪いのではないか)というか格好悪いとされているからじゃないか、とか。いやいや単にバカになってるだけなんじゃないのか、とかそんな内容でした。


で、バカになってる理由として、アイドルとしての知識人がいないからじゃないかという話が出ました。インセンティブ論ですね。
まあ理想というか目指すべき存在がいないというのは、評価体系が加点方式から減点方式へ移るということにつながるでしょうから、きっついと思います。とりあえず私はそういう息苦しいの嫌いです。
で、そのアイドルとしての知識人が生まれない背景には、かつてはフィルタリングとしての出版業界(じゃなきゃ文壇ってやつ?)があったのだけれど、今はそうではないということがあるのだと思います。誰でも情報発信できるから、めちゃくちゃ下らない意見とか、反論とも言えないようなクレームだとかが耳に入ってきて、まじめな人はそれに答えようとしてて苦しくなっちゃうっていうのがあるのではないか、と。苦しすぎる偶像なんて割りに合わないから、憧れもしないわけです。そういう連鎖から「降りる」ことも大切だし、誰かが積極的に、一身に怨念を引き受ければ良いのに、という人身御供論も出ました。教養と言って良いのかわかりませんが、ある一定水準の知識レベルというのは必要だと思います。

*1:Wilsonによる規制の政治過程類型で言うところの企業家政治から利益集団政治に移行しているということでしょうか?

*2:管理と自由はトレードオフかどうかは、この場合問わない。必ずしも対立するというわけでもないし、一概言えないかな、と思います。