CCJPシンポジウムまとめ①

今さら感は否めませんが、一応自分用のメモということで・・・3月27日に開催されたCCJPシンポジウムについてまとめておこうと思います。


とりあえず既に報道されてる記事にリンク↓
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2006/03/27/11392.html
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2006/03/27/014.html
また国立情報学研究所主催のNII国際シンポジウムですが、こちらもクリップ↓
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0603/27/news075.html


さて当日は別件の用事があったにも関わらず、レッシグ先生見たさに参加してしまったわけですが、ご本人の講演を聞けただけでなく休憩時間中にロビーでちょっとだけ接近できて、なかなか感慨深い思いをしました。他の先生方にお会いしたときも思ったことですが、テクストやサイト、壇上の「あちら側」にいると思っているひとでも、会おうと思えば会えるんですね。
講演会の内容自体は書籍や記事を読んだりflashを見たりしていれば既知であることがわりと多かったのですが、今回は直接見聞きすることに主眼があったので満足でした。次からは対話してみたいと思います。*1


で、本題のCCJPシンポジウムですが「『誰でも簡単に使える著作権表示』の未来について考える」というタイトルで東大の中山信弘教授、FTEXTの吉江弘一氏、鴻池朋子氏とドミニク・チェン氏、国立情報研究所の高野明彦教授、JASRACの加藤衛氏、nifty黒田由美氏がそれぞれ講演なさりました。そして最後にローレンス・レッシグ教授がそれぞれの講演者に質問を投げかけるという構成でした。



中山信弘教授 開会・ご挨拶

まずは開会の辞として中山先生が著作権制度の現状とCreative Commonsについて簡潔にまとめていらっしゃいました。*2
そのなかで特に印象に残ったのは「クリエイティブ・コモンズは、例えて言えば著作権という大帝国の中での、自由な意思によって作られる自治都市のような存在」という言葉です。「帝国」という言葉のなかには古典的で崩し難く強大な、というようなニュアンスが込められているようでした。
でも気になったのは、レッシグ先生との問答のなかで中山先生が、CCライセンスは契約であると明言なさっていたことです。*3
「ライセンスって契約なの??」という点もとても疑問ですが、個々の契約で処理していくのがベストであるという提案は多少無理があるのではないかと思います。仮にライセンスである程度捌いたとしても、やはり煩わしさがコストとしてともなうのではないでしょうか・・・。
「帝国」であるところの著作権法を情報化社会に適応させるのは難しいという点では一致しますが、その処方選択には現時点では賛同しかねます。何か権利処理を簡易化するシステムをともなうなら賛同できるかもしれませんが。そういったシステムでは契約の擬制になると思いますし。でも現時点でそういった実装面での提案がなされていないので、なんとも言えません。
そしてライセンスってはっきり契約と言ってよいのでしょうか・・・。うーん。そのへんはまだ不勉強なのでコメントできませんが、一応疑問を呈しておきたいと思います。*4

吉江弘一氏 「みんなで作ることの喜び〜CC的教科書の作り方〜」

次に吉江氏よりFTEXTについて。
FTEXTは「みんなの知恵を本に」という理念のもと、ネット時代の執筆作法(wiki的なもの)を利用して教科書を作ろうというもので、CCライセンスを付けてデータベース化をしているそうです。コンテンツを囲い込まないことで①問答の追加②ミスプリの修正③別解の集積が可能となります。よって特徴としてa)カスタマイズ可b)応用例の追加c)常に変化する教科書*5があり、今後は数学だけでなく物理や料理などで展開していく予定だそうです。
吉江氏に対してレッシグ先生は他国でのFTEXT展開予定について質問しました。吉江氏によれば、FTEXTは文科省のカリキュラムに合わせて作成されているので、そのままではできないとのこと。ただしまだまだ未定ではあるけれど、ウズベキスタン等でFTEXTが出来れば良いとは思っているということでした。

鴻池朋子氏/ドミニク・チェン氏 「想像力は何処から来る?」

鴻池氏は自作の紹介をしつつ、CCライセンスを使うにいたった心境をアーティストとしての立場から語っていらっしゃいました。
鴻池氏は、一部の作品を販売する一方で、BGMの延長利用許諾が得られなかったためにお蔵入りしていた作品を映像のみCCライセンスを付して公開しました。他のBGMをつけて再構築するということもできたそうですが、瞬発力で作ったものをまたまとめ直すといのはしたくなかったそうですし、CCライセンスを使うことで自分の中の想像力が解放されるような直感があったそうです。
アーティストは創作それ自体に没入し、のめりこんで作品と向き合うものだと思います。そして出来上がった作品を公開する段になって、つまり社会と接するときに著作権を意識しはじめ、立ち現れるようになるのです。作品は没入していた時間を含みこみ、自分の一部であるような感覚を得ます。鴻池氏の言葉では「自分の作品に対する執着はしていない。でも創作(のめりこみ)にはこだわりがある」ということになるようです。そして作品にこだわって著作権でしばろうとすると「あそび」が少なくなって息苦しいようです。創作(していた自分)に対するこだわりを少し譲って、レスポンスやリミックスという出会いや気づきを求める気持ちを優先させるというのが解放感につながるようです。
レッシグ先生から鴻池氏への質疑にあったように、その感覚はアーティストやクリエイター全員に共通するものではないかもしれませんし、メリットとしてわかりにくいものでしょう。しかししがらみから逃れられるという自由さは、やはりあるようです。


以下は次回
まとめ②につづきます。たぶん。

*1:そのためには英語と法学をもっと真面目にやらねば・・・

*2:詳しくは先にリンクした「クリエイティブ・コモンズは著作権帝国の中の自治都市」〜CCJPシンポジウムをご覧下さい

*3:このへんを訳者の方がどう伝えたか気になるところ

*4:すいません。なにぶん民則の成績が鬼のように悪かったもので・・・

*5:教科書というと固定化され定式化されたものをイメージしますが、そこから脱却できれば生徒の意識も変わるのではないか、という意味らしいです