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行政学のレポートが返却されたのでリユース



「日本は官僚が実質的に支配している。なぜならば政策は基本的には官僚が作っているからだ」という見解に対する私の意見は、「政策は基本的には官僚が作っている」ことと「日本は官僚が実質的に支配している」ことの間の因果関係は薄く、「政策は基本的には官僚が作っている」からといって必ずしも「日本は官僚が実質的に支配している」ことにはならないというものである。
ただし政策立案ではなく執行のもつ影響も少なくなく、その点で「日本は官僚が実質的に支配している」という側面があることも否定できないが、本稿の命題とは多少逸れるので指摘するに留める。よって、以下ではこの意見に関する論拠を示していきたい。


まずは「日本は官僚が実質的に支配している。なぜならば政策は基本的には官僚が作っているからだ」という見解に対して検討を加える。この前提として、政治家が政策形成を官僚に委任する方が合理的かつ効率的であるということがある*1
それで「委任という行為それ自体が、さらに大きな『情報の非対称性』を引き起こす」のである。政策知識など情報の非対称性によって裁量の拡大が生じ、行政国家化するのは不可避であり、官僚の自律性(bureaucratic autonomy)と官僚統制(political control)の緊張関係はほぼ自明に内在することになる。
しかし、社会問題の複雑化における専門知識の分化によって、あるいは立案と執行の同居による政策執行の制度的優位性や外部統制の難しさなどによって、官僚優位に傾くとする。つまり政治家には官僚を統制する能力がなく職務を放棄しているため、行政の自律性が高くなるとしているのだ。


制度的に完全な操縦はそもそも不可能であり、官僚の存在意義からしてそれは不可避であろう。それを指向するのは非合理的かつ非効率的だ。しかし以上のような観点からだけでは「プリンシパル‐エージェント関係の上で主導権なり裁量権なりが果たす役割を見落として」しまう。「国会議員は官僚に主導権や裁量権を行使させても力関係を変化させずに済む」からだ*2。すなわち官僚の裁量の大きさが、政治家が合理的に委譲したものであれば「官僚が実質的に支配している」ことにはならない。


多数派政党に投票した有権者は(与党)政治家に、政治家は官僚に対して権限を委任し、暗黙の代理関係を結ぶが、その際各々の代理関係間でアカウンタビリティ(答責性)が発生する。政治家と官僚との間に注目すれば政治家が官僚に委任し、官僚は政治家に合目的性追求責任を負っている。これが正常に機能していれば、前述のような「合理的委任」にあたると考えることができるだろう。そして政治家には官僚の監視制度を構築するインセンティブが存在する。
これは再選するために業績誇示や責任回避行動をとって、有権者に対するアカウンタビリティを果たす必要があるからである。「代理人の持つ専門知識や技能を利用するために、本人は代理人への委任を行わざるを得ない。こうした状況におかれた本人は、完全でなくとも、できるだけ有効に、効率的に代理人をコントロールしようと努力するだろう。本人は代理人をさまざまな形で監視し、自分の思い通りに動いた場合にはこれに報償を与え、自分の利益に反した者には懲罰を与えることで、代理人の忠誠を導き出し、機会主義的な行動をできるだけ減らそうとするのである。」*3


では、日本における官僚統制はどのように実装されているのだろうか。議員内閣制という視点から言えば、内閣や大臣が官僚の任免権を持ち人事を握っているということ、また予算に関しても最終決定権を持っていること、省庁編成など組織編成ができること、オンブズマン等を通して監視できることなどがあげられる。
自民党という視点から言えば、国会における拒否権を有すること、行政機関の人事や昇進への介入、天下りの利用などがあげられる。特に強調して然るべきなのは、自民党事前審査に内在した強い拒否権だろう。これによって自民党が圧力をかけずとも、事前に官僚側が自民党の拒絶しそうな内容を迂回するということが頻繁に起こったと言われている。それに加えて、陳情者や支援団体からの情報提供、政治家希望の官僚からの注進、省庁間競争を利用することなどによって情報の非対称性を緩和できる。だからラムザイヤーとローゼンブルースは指摘しているように「結果として官僚は従順にならざるを得ない。自民党幹部は、党のはっきりとした政治的目標を邁進させるような仕事を官僚にまかせることができるし、事実そうしていると認められる」のである*4


もちろん、政府・与党の二元体制によって官僚がアカウンタビリティを負うべき本人が複数いて、委任がスムーズに行われないという反論もあるだろう。連立政権ではさらに多くの本人がいることになる。本人-代理人関係が整理されていないという指摘はエージェンシー・スラック(本人と代理人との意思の落差)を高める要因ではあるが、実証的研究によれば、政権党の選好と政策出力の関係は有意であるとされる。
また、票に結びつかないような政治家にとって関心の薄い分野は「非力な放棄」が行われ続けよう。しかし自民党の長期政権によって政治的不確定さが低下したために、保守的傾向をもつ者たちが官僚になり、政治家の眼の届きにくいところでもエージェンシー・スラックが起きにくいということは言える。


以上は主として55年体制を敷衍した考察だったが、昨今では政治主導あるいは官邸主導が指摘されて久しい。政治のリーダーシップを図るために行政府による政治家の増加を行い、また内閣機能を強化するために特別職国家公務員を採用し、中央集権化を図ろうとしている。米国のように政治任用を多くするのか、英国のように行政府に直接政治家が入っていくのか、あるいは仏国のように大臣付きのスタッフを養成していくのか、いずれの方向に進むかは未だ不確定である。
しかし現時点では政治任用が拡大される方向に動くことが有力だ。無論、いくら官邸主導となり官僚内閣制が定立されたとしても政治家自らが責任を放棄して意図的に「放棄」を行うのであれば、官僚による支配が実質的に行われるだろう。
また政権交代の可能性も官僚統制に影響を与えるということも指摘しておきたい。官僚のキャリアパスというシステムを編成する際に少なからず影響を与えるであろうし、官僚になる人材のイデオロギーが多様化するという可能性がある。それに官邸主導が強化されれば、与党執行部との不一致が生じやすくなるかもしれず、先に考察したエージェンシー・スラックを高める要因が今以上に大きく作用するようになるかもしれない。現に自民党事前審査に内在した拒否権が小泉内閣では機能しない局面もあった。ポスト小泉の動向にもよるが、本人側と代理人側というカテゴライズでは割り切れない、もっと複数の主体の緊張関係に移行する可能性も多分にある。


今後「官僚のキャリアパス」「政治のリーダーシップ」「官僚の中立性」のバランスがどのように変化するかによって、今回の命題の答えは変わる可能性があることを踏まえた上で、現時点では「政策は基本的には官僚が作っている」からといって必ずしも「日本は官僚が実質的に支配している」ことにはならないという結論に至った。

*1:建林正彦(2003)「第3章 官僚」 平野浩・河野勝『アクセス日本政治論』 日本経済評論社 p75

*2:M.ラムザイヤー・F.ローゼンブルース(1995) 『日本社会の経済学―政権政党の合理的選択―』弘文堂、第6章 p102

*3:建林正彦(2003)「第3章 官僚」 平野浩・河野勝『アクセス日本政治論』 日本経済評論社 p76

*4:M.ラムザイヤー・F.ローゼンブルース(1995) 『日本社会の経済学―政権政党の合理的選択―』弘文堂、第6章 p119