Webで読める著作権に関する資料(1)インセンティブ論について

インセンティブ論についてちょこっと調べています。対で出てくる自然権論に対抗するためではなくて、インセンティブ論の問題点を洗い出すためです。というわけで以下2つを紹介。

福井先生の『著作権とは何か ―文化と創造のゆくえ (集英社新書)』という著作への書評。

著者は本書で、ただ「著作権とは何か」を解説しているだけではない。物に対する所有権と違って、著作権など情報に対する所有権は、近代国家、特に資本主義国家で、初めて認められるようになった権利であると指摘する。利用するだけの人はもちろん、創作活動をする人も、著作権などに煩わされず自由に他人の著作を利用できる方が、創作には便利であると主張する。

著者は「創作のインセンティブ」が著作権の本質的意義だと考え、著作権は無条件にまもられるべきものだ、とは考えていない。シェークスピアモリエールは翻案の天才だが、現代に彼らが登場しても原作の権利者から翻案の許可がおりないか、高額の権利料を請求され、もうあの戯曲は、ほとんど書けないだろう、という。

こうした現行の著作権法にたいする疑問は、突き詰めれば「物財と情報財を同じにあつかってよいのか?」という問題に帰着する。日本はこれについての議論が殆どないまま、アメリカの国家戦略の中で「知的財産保護」の強化に走り、裁判所もその方向の判断を重ねているようだが、それで良いのだろうか?

とても参考になるコラム。他も良質。

インセンティブ論。自然権論と異なり、インセンティブ論は著作権制度を人工的に設定された制度であると根拠づける。その根拠は、インセンティブ、すなわち、国民の知的生産活動を誘引(インセンティブ)するために、国家が一定の特許/報償を与えるという、制度設計に求められる。もともと、人々の知的生産活動をどのように利用するかは、各人の自由に委ねられている。本からどのようなインスピレーションを受け取るか、そのインスピレーションをどのように活用するかなどは、本来、各人の自由な行為に委ねられている。あるいは、かつては写本は禁じられておらず、各人は自由に、赴くまま、写本をしていたという歴史的事実がある。本来、知的生産活動とは、人類の共有財産であり、それをどのように活用しようが自由であった。しかし、そのような活用を無秩序に認めてしまえば、最初にその知的活動を行った人間が知的活動から充分に対価を得る前に、他人によってその著作物を活用されて、結果、充分な対価を得られない危険性がある。そこで一定期間、そのものが充分に対価を得るだけの期間、その者に独占的な使用権を認めよう。そんな考え方だ。これは、クリエイティブコモンズなどで有名な、webで大人気のレッシグ教授が提唱している学説で、この理論を前提に著作権制度を考察している論者も多いことだろう。現在の日本著作権法学会の通説でもある。国家が、知的活動の利用に独占権を与え、他者の利用を規制するところから、規制論とも呼ばれる。
 当然、インセンティブ論においては著作権は人権と認められない。著作権人権学説を採用するはずもない。

しかし一方で、インセンティブ論にも問題がある。
 ひとつは、インセンティブ論では著作権制度を自律的に把握することが不可能になる。
 インセンティブ論とは要は、インセンティブを与える方法を模索する理解の仕方であるから、著作権制度を現行法のように理解する必要はない。そこで、あらゆる可能性が模索される結果、議論のとっかかりを把握しにくい。これは、議論を進める上で柔軟な思考を促す一方、議論の統合を促しにくい。自己批判的であるが故に、とらえどころがない。
 ひとつは、インセンティブ論では適切な規制を把握するのが困難になる。
 インセンティブと一口に言うが、なにをもってインセンティブとするかは、時代や国家、政府の国家方針によって左右される。これは、柔軟な法改正を促す一方で、法的安定性を極めて欠きやすい。法制度自体が、国家方針にすべてを委ねられるからだ。特に、著作権の制限を国家方針に委ねた場合、自然権的視点から考えると危うく感じる。
 ひとつは、インセンティブ論を採用した場合、運用レベルで柔軟な対応を困難にさせる。
 インセンティブ論とはすなわち、著作権法行政法規的に把握することである。そうなれば当然、「書いていないことは出来ない」という運用になりやすい。この場合、例え現行法に重大な欠陥が発見されたとしてもそれを一般法規などの柔軟運用によって、その欠陥を穴埋めることは不可能となる。例えば現在、著作権の制限においてフェアユースの導入を提唱されているが、著作権インセンティブ論で把握すると、その導入を著しく困難とすることだろう。