「道に迷った世代」から
私はちょうど仲俣暁生さんの言う「道に迷った世代」*1にあたります。
2001年に20歳だった世代を前後に5年づつ延ばすと、 1976年から1986年頃に生まれた世代となり、いま彼ら彼女らはちょうど20代か、せいぜい30代にさしかかったあたりである。私の感覚だとむしろこの世代のほうが、指針を失い、「道に迷った世代」の定義としてはふさわしいように思える。第一次世界大戦がもたらしたのは、ヨーロッパの「古きよき世界」の崩壊であり、それを支えた価値観の喪失である。このときに「失われた」ものは、ケチくさい高度成長や好景気などではなく、ひとつの「文明」そのものだった。のちに「戦間期」として位置づけられることになる、二つの世界大戦の狭間の時代を20代〜30代として過ごすことになった世代が「Lost Generation」と呼ばれたことには、それほどの大きな意味が込められていたはずだ。
仲俣さんがメルクマークとする911テロの起きた日、TVに映し出された燃え上がって崩壊していくビルを横目に、私は翌日の英単語テストの準備をしていました。これって映画みたい、とかこれでもし世界の序列が変わったら今やっている英語の勉強は無駄になるのかな、とか上の空になりつつ、しかし手はしっかりと単語を綴り続けていた記憶があります。
いま何よりすべきなのは、「失われた十年」などという軽薄なマスコミ用語によって巧妙に隠蔽されている、(この世代だけでなく私たちすべてにとっての)「失われた」ものの実質を問うことのはずで、私はその第一は「景気」や「豊かさ」ではなく、なによりもまず「知性」であり、それを支える「勇気」だと思う。その欠落がたんなる「景気回復」や「バブルの再来」によって埋め合わされてしまう程度のものなのか、それよりずっと深いところでの「欠落」なのかを見極めないかぎり、これまでも何度も無益に繰り返されてきた、若い世代に対する無責任なレッテル貼りを繰り返すだけだろう。
と仲俣さんは仰っていて、この点に私は賛同します。
教養主義の時代が終わり、構造主義が去った後はただただ知の荒野が広がるばかりで、しかも学校では前近代かせいぜいWWⅡ前の知しか示してくれず、好奇心をどこに向けて良いかとっかかりが全然つかめなかったからです。ライアカ!という企画を始めたのは、だから似たような認識があったからなのです。
しかしここだけはどうしても賛成できません。
「ロスト・ジェネレーション」などとマスコミに名指されてしまった世代は、「失われた」ものを回復させろと主張する資格があるし、そのためにならいくらでも「道に迷って」いいと思うし、いつまででも道に迷いつづける権利を主張すべきだろう。もし「ロスト・ジェネレーション」という言葉をいま日本で使うとしたら、ガートルード・スタインが言ったとおりの本来の意味で使うべきだと思う。
迷い続けた人たちがどうなるか、それこそ「失われた世代」が体現しているからです。
いつまででも道に迷いつづける権利を主張したところで私*2は救われないでしょう。神話となりつつある「天職」や不確実極まりない「やりがい」を求めてさまよう、あるいは無限後退に陥ってひきこもる。そのような帰結が「蒼ざめたる馬」として目前にあるのですから。
そこで「いつまでも迷っていいよ」というのは、甘美なことかもしれません。でもたぶんそう言われる側はきついのです。ですからおそらく、こう言っていただかなければならないのだと思います。「あきらめなさい」と。
あきらめるというとネガティブに聞こえますが、まあそこは見切る、と言っても良いでしょう。所詮、人間のできることなんて限られているのですから、自分の持ってるリソースでどこまでできるかを事前にある程度把握してある程度のところで何かを手放すことが重要です。
情報過多になってしまったということは、自分の将来についてもある程度予測できてしまうということです。こういう学歴でこの職につけば、生涯賃金がどれくらいで、できることはこのくらいで、できないことはこのくらいで…そういったケースを考えるだけもモデルは腐るほど有り余っています。
もちろん、新たな市場なり職が発生して、そこで別のモデルが発生することは否定はしません。そこで投機の可能性とリスクを考量する人もいるでしょう。
しかし同時に、まわりを見回してみるとこのような諦念というかリスクヘッジは既に「道に迷った世代」に十全過ぎるくらいに内面化されているように見受けられます*3。ですからパフォーマティブであるのなら、「あきらめろ」というのとは別の訴えかけが有効なのではないかとも思います。
しかし不安を組み込んだ安定志向であり高望みしない人たちにどのような言説が有効なのかと考えると、言説では救い得ないのではないでしょうか*4。すなわち実際的で制度的な解決以外なんら説得力を持ち得ないのではないかということです。現に私自身(うんざりするほどよくあることですが)そうした類の言説を聞かされたとき、表では殊勝な顔をして異論も唱えませんが、内心「言ったことよりもやったことで判断すべきだな」と思って聞き流していたりします。とはいえ相手に不足なしと判断した場合、このような異議申し立てや批判を行い、無礼だとか生意気な小娘だとか言われるわけなのですが…。
そして最後に、私がこうした意見を書くのは、もちろん「当事者問題」や「代表機能問題」*5を内包していますし、そのことを自覚もしています。当該世代の発言だからと座して聞き入ってもらいたくてこのエントリを書いているわけではありませんし、世代を代表してなどと思っているわけでもありません*6。これは政治的な発言のひとつと捉えていただきたいと思います。
私は一般的な政策や行動もすべてReality 2.0的なものとして捉えています*7から、すべての行動が政治的であるという感じすらあるのですが、けれどもこれはまた別の話、いつかまた、別のときにはなすことにしましょう。
*1:詳しくは愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 「ロスト・ジェネレーション」を「失われた世代」と訳していいものかどうかを参照
*2:「私たち」ではなく「私」である理由は後述
*3:このことについては半可思惟―10代のぜんぶにおいて言及
*4:救える言説はおそらくひとつありますが、私はその可能性を支持したくありません
*5:Freezing Point―ポジションと発言内容の政治を参照のこと
*6:世代論は企図として面白い試みだと思うので、世代論そのものに意味がないとは思いません
*7:私としては塩気の足りない料理に塩を振るのと同じくらい自然なことで、むしろみんな文句ひとつ言わずにまずいごはん食べているのか、そっちの方がむしろ変だなと思っています。しかし同趣旨の発言をしたときに「ナメクジに塩振ってるイメージ」といわれたのはなぜかしら、なぜでしょう…