著作権に関する疑問に頑張って答えてみます
どうもお久しぶりです。イスパのテストが終わって冬休みに入り、大掃除もひと段落ついたのでぼちぼちこちらの更新も再開したいと思います*1。
さてこんな質問をいただきました。
あんまこの話題について勉強してないけど、そもそも、著作権って著作者本人の権利だよね??
彼が死んでから50年ってことは、彼とは別の人が著作権引き継ぐってことだよね?
・・・ゼミで、「相続制度は平等原則違反だ!」って議論をしたことがあったんだけど、所有権ってそもそも、自分が労働を投下したものだからこそ生まれるはず。(確かロックの主張・・・。)
それなのに、自分で何か生み出したわけではない人が50年もたなぼたに預かれるのが違和感なんだけど。。。
そこらへんどうなんだろ。
著作者ORその相続人の保護っていうより、貿易で経済的利益上げたい国の思惑とかのが強いんかな?
よくわからないので教えて〜!!
これについて生半可な知識を用いて*2答えてみようと思います。
著作権って著作者本人の権利?
答えはNOでありYES。場合によります。
著作者とは著作物の創作者、つまり作品の作り手のことです。私たちが普通に想定するのはこちらですね。でも財産権でもある著作権は他人に譲渡することができますし、話題になっているように相続によって移転することもあります。つまり「著作権者」は著作者と必ずしもイコールではないのです。
ただし公表権、氏名表示権、同一性保持権といった人格権は移譲できません。著作権「権利の束」で、まったきひとつのワンピースではないのです。お金に関する財産権と名誉などに関する人格権に大別されますが、前者はあげることができて後者はあげることができません。
で、この件でちょっと注意してほしいのが、著作権を渡す相手が結構な場合、法人であるということです。媒体にもよりますが、レコード会社など大手企業が著作権者であることも多いのです。
また、それとは別に事業者には著作隣接権があります。例えば実演家(歌手や演奏者。ジャズとかオーケストラとかを思い浮かべてみてください)、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者なんかがそうです*3。
著作権って所有権?
これも人によって見解が分かれるところです。
一つは、著作権というものは、法律学的または経済学的理由付けよりも先んじて、自然の権利として存在しているのだという考え方です。それは、あなたがあなた自身の頭脳を使って、しかも苦労して作品を生み出したのだから、その作品があなたのものであることは、法律的・経済的理由付けを必要としない当然であるとするものです。だから他人がそうした作品を勝手に使用することは、基本的に不正なことということになります。こうした考え方を「自然権理論」と呼びます。
(中略)
逆に、著作権というものは、過去においては学問や芸術の振興、現在はそれに加えて産業秩序の維持を目的として政策のために作られた人工的な権利にすぎないという考え方があります。これを「規制理論」と呼びます。こちらの考え方は、著作権といわれている権利には二つの要素があると考えます。すなわち、創作者がある作品を生み出した事実から当然に発生する「創作者の権利」とこの「創作者の権利」に加えて法律の効力で作られた「排他的独占権」が組み合わさっていると考えるのです。
しかしご質問のなかに出ていたロック的な労働価値所有論の観点からすると、著作権法は全然意味不明なんです。一橋大法学部教授の森村進先生はそういうことを『財産権の理論 (法哲学叢書)』のなかで論じてます。その一部はweb上でも読めるので引用しますと、
確かに本書の海賊版を印刷する人は、本書から生じる経済的利益(・・・)を独占する機会を私から奪うことになる。しかし問題は、<本書を私に無断で複製しても私の他の人の人格的権利や財産権を侵害するわけではない場合に、なぜ私がそれを禁止する法的権利を持つことが許されるべきなのか?>である(P169)
ところで多くの人は、ある著作者が別人の著作物とよく似たものを発表するとそれを「盗作」と呼ぶが、ある著作者が続けて同じような作品ばかりを発表するとそれを「作風」と呼ぶ。(・・・)作品の価値だけを考えるならば、著作者が誰であるかはどうでも良い問題のはずである。また『縛られたプロメテウス』や『平家物語』の作者が誰か不明だからといって、その芸術的価値が低下するわけではない。(P171)
著作物に経済的な価値があるからそれを法律で保護すべきだというのは論点の先取りである。それはちょうど、空気を公有化すれば政府が各人から空気の使用量を徴収できて大きな財源になるから、その経済的価値を保護するために空気を公有化せよ、と主張するようなものである。
というのは、それらの行為が許されるべきではないのは、死んだ著作者の利益を守るためではなくて、公衆の文化的利益を守るためだからである。(P182)
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~li025960/home/books/050319zaisann.html#5
ということになります。
歴史的淵源からこの点について考察してあるのが『コピーライトの史的展開 (知的財産研究叢書)』です。その論旨はWeb上でも読むことが出来ますので、少しだけ以下に引用してみましょう。
(1)ベルヌ条約法系でいうところの「著作権」とアメリカでいうところの「コピーライト」は同じ物ではない。コピーライトは独占そのものであり、自然権の観点から正当化される「著作者の権利」とは必然的に結びつくものではない。
(2)コピーライトがもたらす独占は、コンテンツの流通に費用がかかる場合には社会的厚生を増大させる効果を持ち、正当化される。しかしながら、デジタル時代、コンピュータネットワーク時代で、仮にコンテンツの流通に費用がかからない場合は、否定されるべきである。
(略)
欧州各国では「著作権が自然権に根拠を持つ」という説が台頭した頃から著作権の歴史が始まっているのです。そこでは、「著作者は自然権に基づいて所有権を持っているのだから、その当然の効果として作品に対する支配権、すなわち排他的独占権を持っている」と考えられました。しかし、著作権法の最も重要な部分、すなわち、排他的独占権は、出版者のための権利であるコピーライトそのものなのです。
著作権保護期間延長は貿易で経済的利益を上げたい国の思惑?
はい、それはあります。ただし米国などの場合にはあてはまりますが、日本にとってはむしろマイナスだと考えられます。なぜなら日本は今コンテンツに関しては輸入超過だからです*4。
ちなみにイギリスは300年で約6倍以上延ばしています*5し、アメリカは20世紀の100年間で公表後28年(更新で42年)から公表後95年(更新不要)または死後70年にして、これもまた約6倍以上延ばしています。でも、著作権に関する国際条約で定められた保護期間は死後50年で、大半の国はこれに従っています。
じゃあ輸出入をみると不利になるのにもかかわらず、何故延長という話になるかと言うと、まあそのひとつの要因としては「欧米がそうしてるから、欧米が要求してくるから」という思い込みがあるのではないかと思います。そこで思考停止するのではなくメリット・デメリットをもっと考えなくてはいけないのですけどね。
これ以外にもベルヌ条約とか「国際協調」とかいう話には深くて難しいところがあるのですが、けれどもこれはまた別の話、いつかまた、別のときにはなすことにしましょう。