コテハンの責任とキャラ選択―人格と責任について―

個人主義は近代的市民社会の基底を成す思想であるが、実は不明確な観点を含んでいる。それは時間的に継続する普遍の統一的人格の存在を自明のものとして前提にしているという点である。この論考では、このようなリジットな個人観に対してやわらかい人格観に立ちつつ、いかにして主体を同定し、その同定をいかにして正当化できるかを考察したい。

本論

「もはや私は10年前の私ではない」という文が修辞上だけでなく指示内容としてもある程度実感ができるように、人は絶え間ない変容の総合であると捉えることもできる。
哲学者のデレク・パーフィットは『理由と人格―非人格性の倫理へ』 のなかで2つの時点の心理的状態が直接に記憶や欲求によって繋がっていることを「連結性(connectedness)」と呼び、2つの状態の間にオーバーラップする一連の強い連結性がある繋がりのあることを「継続性(continuity)」と呼んでいる。継続性は推移的な関係だが連結性はそうではなく、また継続性は二進法だが連結性は様々な心理状態の要素によって決まるのでシグモイド関数的になめらかである。現在の自分から時間が離れるほど過去や未来との自分との連結性は薄くなるが連続性は失われない。パーフィットは「心理的な連結性および/または継続性」をR関数として人格の同一性よりもR関係の方が重要である主張する。
森村進はこのような議論を踏まえて、人格の同一性についてはR関数を基準にするのが妥当であるとしている 。

一生を通じた人格の同一性とは、個々の時点における人格の心理的継続性(連結性ではなく)から構成された観念にすぎない。従って個人主義が団体について唯名論的立場をとるように、程度説は通時的人格について唯名論的立場をとる

のである*1。リジットな人格については個人差によって説明できる。すなわち時間の経過にともなうR関数の減少の仕方には個人差があるため、性格が変わりにくい人ほどR関係が密接につながっていると説明できるのである。


以上は内心的な主観的問題提起であったが、次に社会的な問題について述べたい。個々人の個性よりも個人の置かれた立場に応じた人格が期待されることはよくあることであり、またそうした人格に自己を投影し同視するのが通常である。場に応じて呼び出される人格というのは、「父」、「顔役」、「上司」、「学生」といった社会的文脈に位置づけられ、立場に応じて要求される一定の判断規範、行動規範に従って行動する人格であった。これを「社会的人格」と呼ぶことにする。社会的人格は、まず大きな物語としての「社会」が前提とされており、その社会を機能させるために、人々には階層的な社会的地位が割り当てられる。その上で、その人物の社会的位置に応じて人格が割り当てられるのだ。機能が先にあり人格がそれに従うわけだから、ある類型が同時に複数の人間に割り当てられていても問題ない。これが、人が社会化するということであり、社会的地位に応じて与えられる人格に疑問を感じることはほとんどなかっただろう。そして社会的人格は社会的ステータスと一致させられる場合が多くその点から責任が問え、また正当化できた。
しかし白田秀彰は「意思主義とネット人格・キャラ選択時代」*2において、現在の人格の選択行動で参照される人格というのは、そうした伝統的な社会化されたキャラではないと指摘している。誰かの人格について理解し、また自分のものとして人格を選ぶ基礎となっているのは、ドラマ、アニメ、マンガ、ゲーム世界であるとする。これを「物語的キャラ」と呼ぶ。物語世界では、同じ機能を果たすキャラは複数必要なく、まして物語の進行に貢献しないキャラクターは必要ない。主役と彼をサポートする類型的なキャラクターが配置され、それに対する類型的な悪役群が配置されるだけで必要十分なのである。物語的キャラの場合は、フラットな位置づけにあるそれぞれの人々がまず「場」の支配を争い、次にキャラを奪い合う競争をする。つまり根源的には序列はなくてフラットであり、キャラで行動が決まってしまうため意思や人格の問題が顕在化しやすい。現実よりも「場」や「キャラ」の分裂や分立が可能なネット環境において、検討すべき課題であるが、この際参考になるのは「やわらかい人格」についての森村の論考である。
前述した森村の説は「ある人とある人とが同一人物であること」の評価基準をある程度説明できる。「社会的人格」も「物語的キャラ」も連結性は欠けているかもしれないが、継続性の観点からは同一性を判断できるからである。森村自身は

社会的人格の方が自己人格よりも制度化されやすく、通時的同一性を保つことが多い。他者との関係では、本人の心理的連結性はさして重要でないからである

としている*3。しかし社会的人格が同一性を保ちやすく、物語的キャラは通時的同一性を保ちにくいとしても、それは相対的なものであり、森村理論が援用できると考える。ただしコンテキストについて後者の方がより十分な考慮をしなくてはならないと言えるかもしれない。人格の個別性を程度の問題すなわちR関係の問題とするために、個人の権利義務の内容や責任の重さの確定にあたって、流動的な要素を多く含まざるを得ないし、またR関係の測定に関して連結性をどのように判断すべきか客観的指針はない。これはこの説に不可避の不確定性である。
ではそうした評価基準はどのようにして正当化可能だろうか。直感的には

人は最近犯した悪事よりも、はるか昔に犯した悪事について責任を問われるべき程度が少ない。両当事者が長い間放っておいた約束は取消されてもやむを得ない。遅すぎる賠償は過去の被害の埋め合わせにならない。

などの判断に合致しているものと見える*4。そして森村はたとえ人格がリジットでないとしても責任の主体となるのは、約束という制度にコミットしていて相手もそれを期待しているからだ、と言う。契約時の意思を恒常的なものと擬制しているという見方もできるだろうが、これではなぜ履行時の意思ではなく契約時の意思なのかという疑問には答えられない。そこで森村はこう説く 。

自らの結んだ個々の契約を後悔し履行を拒む人々も、その大部分は、契約という制度を全面的に否定するわけではかろう。彼らも社会の中に生きている以上、数多くの契約を結び、自分に有利な契約の履行を拒まず、また相手方にもその履行を求めるだろう。このような人に対しては、自分自身で契約制度にはいり込んでそれを利用しておきながら、自分に都合の悪い時だけその制度から逃れようとするのは不公正である、あるいはその普遍性を欠くので実践的議論における正当性を欠く、と言うことができる。*5


しかしこの森村理論によると、例えば契約という制度にコミットしないと言う人には拘束力を持てないことになる。だがここで逆の疑問も生じる。そもそもなぜ人は約束や法という制度にコミットしているのだろうか。多くの人が道徳や法を受け入れているのは何故なのだろうか。道徳や法が建前としてでも通用していない社会は、思考実験でしかない。
利己的な意図でコミットをしないと判断し、コミットすることを停止すると、逆に自分にとっての利益はマイナスになってしまう、というのはひとつの答えなのかもしれない。つまり利他的でかつ、コミットを行うことが、結果として利己的な利益の確保につながるというのは経済学的に正しい答えではある。しかしコミットした方が全体の効用を底上げできるというのは経済を学んだからいえるのであって、すべての人が自明視しているわけではない。コミットする、という行為それ自体が、制度の理解を促進させ、その利用方法の理解を個に促すことは理解できる。しかし数学的帰納法としては、この解は証明を果たしていない。「契約」や「法の遵守」といった思想が何に由来するのかが疑問に残る。例えば社会契約説をとるのなら、自然状態で契約が成されたのにもかかわらず、それによって作られたはずの社会規範が、契約行為そのものに遡及的に妥当してしまうのは何故かという問題である。カントが想定していたような、契約の内容は忘れるがそれ自体は尊重されるという状態はいかにして発生するのだろうか。
前述の問題について永井均

他人たちと社会契約を結ぼうとするということは、たとえそれが本当は相手をだまそうとしたものであっても、自分を他の人間たちとならぶ一人の持続的な理性的存在として把握するということなんだよ。他者との道徳関係の可能性の理解こそが真の利己主義をはじめて育てるということだ。つまり、その二つはじつは表裏一体の関係にあるんだ。にもかかわらず、契約の可能性とともにはじめて成立するそのような利己主義が、契約以前からずっとあったかのように、契約後には理解されるというわけだ。

と述べている*6。そしてカント的想定に関しては、

自分の方針が利己性の追及のための戦略であることを忘れるほどに道徳的でなければ、それを成功させることができない。しかし、他面では、利己性の追求に基づく戦略であることを忘れてはいけない、ということだ。ここには確かに二つの矛盾する要求がある。しかし、逆に言えば、自己利益の追求と道徳の欲求とが、相互に支え合い相手を包含しあうという興味深い状態が実現してるとも言えるのだ。これは、言葉でいうと複雑だけど、じつはごくふつうの人間がだれでも実現できているふつうのことにすぎない。

と言っている*7。制度の運用者の立場からすると、なぜコミットするかは問題でなく、事後説明としてそれらが正当化されれば良いだけであり、倫理や道徳あるいは法はその方便に過ぎないという見方もできるだろう。そして中庸さが不可欠の要因であることも考えられる。しかしなぜ社会契約が成立するのかが、やはり説明できないのである。

結論

人格は変わっていくものであると想定しても、あるいは「場」に応じて別個の人格が要請されるとしても、ある人とある人とが同一人物であることは判断でき、またその判断に正当性もある。ただし個々の実践的な判断でしか解決できないという問題と、そもそもなぜ人が約束や法という制度にコミットしているのかという疑問が残る。