羊狩りに奔走する著作権論争(狼はどこへ?)

クロサカタツヤさんが「こわれゆく著作権」のなかでMIAUについて言及されていたので、遅ればせながら反応してみたいと思います。なお、今回のエントリはMIAUを代表するものではなく、あくまで私見ですからあしからず…。
まずは、

これはMiAUについても同じで、誰の利益のために誰を説得しようとしているのか、という前提条件が揺れてしまい、結果としてアピールのためのアピールに終始しているように見える、というのが正直な印象である。横から見ていて、彼らの動きに戦略・戦術の両方が感じられないように見えるのも、土地が揺れていては上物は建てられず、ただ立つだけで精一杯、ということなのだと思う。

についてです。第二文は仰るとおりであり、himagine_no9さんが

あのねぇ‥‥こうしてる間にも文化庁は現実に著作権法を変えようとしてるんですけど。短期的な戦術と長期的な戦略とを混同したらこの流れは止まらないよ。 MIAU は短期的な対応に忙殺されているというのが正確。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://japan.cnet.com/blog/kurosaka/2008/01/21/entry_25004336/

と指摘していらっしゃる通りです。MIAUはまだまだ脆弱な組織でアクティブな会員も少ない状態であるのは周知の事実のようです…。
さて、反論があるのは第一文についてなのですが、既にhexeさんが「ネットにおいてはコンテナ(=パッケージ)によるコントロールは無効化される」ということを指摘した上で以下のように的確に述べていらっしゃるので、引用するに留めたいと思います。

彼らから見て MIAU が「前提条件が揺れて」いるように見えるのも当然だ。そもそもの要件定義が違うんだもの。これが「箱の仕様」を決めるだけで済む話なら MIAU などなくても既存の圧力団体にでも働きかけて粛々と「囲い込み」への準備を進めればいい話だ。実際、「先進的なインターネット・ユーザ」でもそう思っている人は結構いるんじゃないだろうか。

しかし、ネットは Web は「展示場」ではない。ネットでは全てのコンテンツが脱構築されてしまうが故に、それらをコモンズに置く必要がある。その上で(ネット内外を含めて)創造・創作のサイクルをまわすために必要なことは何かを考えなければならない。私は MIAU にはその議論ができると思っている。

http://hexe.tumblr.com/post/24250811

少し言葉を添えるならば、私は情報の「囲い込み」自体を否定するわけではありません。希少性は財としての価値に結びついていますから、著作者が著作物から効率良く対価を得るためにある程度必要でしょう。でも、情報や文化に公共財としての側面もある以上、過度な囲い込みには反対します。利用者は権利制限規定の便益享受を要求することができませんが、しかし権利者は、私的複製を行う利用者の正当な利益を無視しない義務を負うと考えるからです。
さらに、囲い込みを強化するときに「狼を狩れないから羊を狩ろうというのは間違っている」とも思います*1。黒い羊だけ狙い撃ちにするならまだしも、今の政策形成の方向性は、無辜の白い羊を多数なぎ倒してでも黒い羊を狩ろうとしている(そして狼は放置)ように感じられます。

このような議論はストレートにわかりやすくしゃべることはなかなか難しく、「自由」「可能性」など抽象語を使わざるを得ないため、誰の利益のために誰を説得しようとしているのかわかりにくくなってしまうことは否定しませんが…*2


また、クロサカさんは

その後、知人の音楽業界関係者から指摘されたのだが、要はDMCAの施行以降、著作権管理・運用が厳格になったこと、また利用料が高くなったことが影響し、制作段階である程度の売上が見込めるアーティストしか過去のネタを容易には使えなくなったのだそうだ。

と述べ、米国では「模倣による創作」が「法制度によって否定されていることにな」り、「そんな市場は、いくらパッケージが安くても、それはユーザーフレンドリーとは言えないと私は思う」とおっしゃっています。しかし法制度面でいえば、「模倣による創作」に対する許容度は、米国法よりも日本法の方が余程貧しい状況であることは指摘なさっていません。

米国著作権法にはフェアユース(fair use)という一般条項規定があり、「公正な利用」であると判断された場合は(条文にない利用法であっても)著作権者に許諾を得ずに利用や改変ができます。対して日本法では権利制限規定として限定列挙されているのみで、条文に記載のない利用法は基本的に許されず、許諾が必要となります。例えば、検索エンジンによるクロールとキャッシュの問題はアメリカ法ではフェアユースとして許容されていますが、日本では同じことを権利制限規定に盛り込むことを今なお検討しており、現時点では検索エンジンのサーバーを国内に設置してキャッシュを集めることは違法です。そして、もちろん日本法にはフランス法のようにパロディ条項なんてものもありません。ユーザーは利用の権利を有しているわけではないのです。著作権の例外にすぎないため、利用者に「権利」はないと考えられています。
また、米国法には著作者人格権の規定はなく、人格権の一種としてある程度保護されますが、著作権とは別物ととらえられています。対して日本法では著作者人格権に関わる著作物の改変行為は、条文上、たとえ私的な空間であっても許されず、著作者の許諾が必要という構成になっています*3
米国著作権法も、ユーザーフレンドリーとは言えないと私も思います。でも、それだったら日本の著作権法はいったい何なのでしょうか。クロサカさんは「経済産業省の某大型プロジェクトに参画」なさっているとのことなので、もちろんこうした状況についても熟知なさっていることでしょう。であるのならば、米国法について批判しているのに日本法について言及しないことは不公正な態度だと思います。


そしてクロサカさんは

となると結論として著作権行政は、市場性と創造性をバランスしつつ、各ステイクホルダーの立ち位置を踏まえながら産業構造の変革を適切に促していかなければならない。すなわち、相当高度な力量を備えたコントローラーを必要とする裁量行政にならざるを得ない、ということである。

とも述べていらっしゃいます。「現在の文化庁は、この裁量行政には最も適さない官庁」とした上で

そう考えると、文化庁を攻撃しても何も得られないという意味で、戦うべき相手は本来は文化庁ではないのだろう。しかしユーザが直接働きかけられる相手として文化庁がやり玉に挙がり、パブコメでも何でも矢面に立たされる。そして文化庁やそこで議論する人たちは賛否いずれも硬直化し、結果として既得権を利する動きしか出てこなくなる。

ではこの悪循環からどう抜け出すか。たとえばよくある方法としては、ユーザの利益を代弁する省庁を見つけ、省庁間で利害が対立する構図を作り、法解釈や既得権者の監督に関する「揺れ」を起こさせた後に、それを収集する形で新たな秩序構造を構築する、というものだ。デジタル・コンテンツ流通云々という話は、その新たな秩序の前提となる技術的な道具立てとして織り込めばいい。

としています。

この点について私はクロサカさんと異なる戦略に立っており、また見解も異なっています。とりあえず列挙してみましょう。
まず第一に、裁量行政はもはや限界にきていること。第二に、たぶんほとんどのインターネット・ユーザーは戦うべき相手が文化庁でないと十分に認識していること、第三に文化庁がやり玉に挙がっているのはパブリックコメントでの多数の意見を無視する形で結論をまとめにかかっているという点につきること、第四に産業構造に対応した省庁編成ではユーザの利益を代弁する省庁はないのであり、仮に存在するか形成されるかするにしても省庁間で利害が対立するよう構造を定立するまで待つことはできないということです。


第一点目についてですが、PSE問題にもみられるように、事情の複雑化と利害関係者の不可視化が進むなかで、裁量行政はもはや最適解ではないと私は考えます。官僚の手腕云々というより、これは短期間で異動(2〜3年)させられ減点方式で評価されるといった人事システムや社会構造的な問題です。
著作権保護期間延長問題を考えるThinkCは、このような流れのなかで立ち位置を確立したものだと私は思います。毎月審議会直前にフォーラムを開催していたこともあり、行政なき場所での第二の審議会、あるいは前哨戦として機能しました。そして実際、実質的に保護期間延長に傾いていたところを、ひっくり返し、かなり慎重な検討を促す結果となったのです。このような、いわば「場外乱闘」が許され、しかも政策決定に影響を与えられるということが明らかになりました。そして、MIAUダビング10問題に関して、審議会の外でシンポジウムを開催しているのは、ダウンロード違法化の際にはできなかった再考を促す機会を提供したいとの思いからです*4

第二点目と第三点目について。文化庁はかつて輸入権問題に際して賛否の数のみ公開し、パブコメの内容は報告書に反映しなかったなどの「前科」があり、また今回も8000件以上よせられた意見を「十分に配慮する」としながらも、8割近くを占めたダウンロード違法化反対意見について結果的に無視するなど、結論ありきに見える運用自体が批判されています。


MIAUは、クリエイターの皆さんとその作品に感謝するために「大感謝祭」キャンペーンをするなど、著作者に敵対的な団体ではありません*5。また、著作(権)者とユーザーを対立構図に落とし込むこと自体が、硬直化と悪循環を生んでいるとも言えます。著作者はユーザーでもあり、ユーザーは著作者となりうるからです。また、文化というのは作り手だけでなくそれを鑑賞し、批評し、支える受け手無しには成立しないからでもあります。この視点を忘れてはならないと思います。

*1:『黒山もこもこ、抜けたら荒野』に出ていた寺山修二の言葉

*2:このエントリ自体が「羊狩り」だという批判は力強く却下

*3:無論前述した権利制限規定に合致した利用は別であるし、実際紛争になるかどうかや違法性の有無もまた別の話

*4:小寺さんの開会の挨拶ではその旨示されています

*5:そもそも代表幹事の二人は著書を出す著作者だ