今日はバレンタインだけど「残酷で異常な刑罰」の話

Roper v. Simmons (2005)は、犯行時に18歳未満だった者を死刑に処すことが、合衆国憲法修正8条および14条によって禁止された「残酷で異常な刑罰(cruel and unusual punishment)」にあたるか否かが争われたケース。2005年米国連邦最高裁判決。Superme Court Reporter 125巻 1183頁〜1230頁所収(125 S.Ct 1183(2005))。
レポートで書いたものを転載。字数を気にしたために尻切れ気味…。あとで反対意見を追補するかも。

【事実の概要】

本件の被告人(被上告人)Christopher SIMMONSは、18歳になる9ヶ月前(つまり当時17歳で高校生)のときに殺人を犯したとして起訴された。被告人は、年下の友人であるCharles Benjamin(15歳)とJohn Tessmer(16歳)の二人を誘い、住居侵入と殺人を犯すことを提案する。犯行前に「誰でもいいから人を殺してみたい」と発言していたとの証言もある。また、彼らは未成年者であり重い罰を科されることはないと認識していたようである(”get away with it” because they were minors.)。
犯行当夜、前述した3人は午前2時に集まったが、Tessmerは被告人ら2人を置いて去った(ただし連邦最高裁はTessmerも共謀していたとしている)ため、被告人らは2人だけで被害者であるShirley Crook宅に侵入した。そして廊下の明かりがついたことに気がついた被害者が「誰かいるの?」と声をあげたため、被告人は被害者の寝室へ向かう。そこで Simmonsは被害者と顔見知りであると気付く。SimmonsとMrs.Crookは以前交通事故の際に会ったことがあった。犯行の発覚を恐れた被告人は、殺意を確かなものとする(被告人自身は殺害の計画性を否定している)。このことは、被告人が友人らに話した内容(”because the bitch seen my face.”)からも裏付けられる。
被告人らはダクト・テープで被害者の目と口を覆い、手を拘束した上で、被害者のミニバンに乗せて州立公園まで運んだ。そこで被害者の頭をタオルで覆い、Meramec川に架かる鉄道の溝脚橋まで歩かせた。そして手足を電気関係のワイヤーで拘束して顔全体をダクト・テープで覆うと、被害者を橋の上から川へと投げた。
被害者の夫であるSteven Croockは帰宅後、寝室が荒らされ妻もいないことを発見する。そしてその翌日、犯行に連座した者の情報提供を受けて警察は被告人を逮捕し、付近の警察署に連行した。そこでSimmonsは殺人罪を自白して、同意の上で犯行時の再現を行った(その様子はビデオに録画されている)。なお、Miranda right(黙秘権や弁護人の立会いについて)の告知を行うなど捜査手続きは適正であった。
ミズーリ州は、Simmonsを住居侵入、誘拐、窃盗並びに第一級殺人罪で起訴。同州において17歳はthe criminal jurisdiction of Missouri’s juvenile court systemの適用を受けないことになっていたため、被告人は成年者と同様に裁かれることになった。第一審の陪審は情状の要素(被告人の若さなど)を考慮しつつも有罪の評決を下した。
しかし、ミズーリ州最高裁判事のLaura Denvir Stith.は人身保護令状により被告人に救済措置を与え、裁量上訴(移送令状の付与)を行ったため、本件は連邦最高裁判所の判断に委ねられることとなった。なお、本件の原告であるDonald P. ROPERは矯正センターの長官であるが、これは人身保護令状付与があったためである。

【争点】

犯行時に18歳未満である被告人を死刑に処すことは、合衆国憲法修正8条および14条によって禁止された「残酷で異常な刑罰(cruel and unusual punishment)」にあたるか否かが主たる争点である。

【判決】

犯行時に18歳未満である被告人を死刑に処すことは、合衆国憲法修正8条および14条によって禁止された「残酷で異常な刑罰(cruel and unusual punishment)」にあたる。
ただし5対4に意見は割れている。多数意見はKennedy主席判事を含む5名(Stevens, Souter, Ginsburg, Breyer)。なおStevensが補足意見を述べ、Ginsburgもそれに賛同した。そして反対意見はO’ConnorとScaliaが述べ、 Scaliaの意見に2名(Rehnquist, Thomas)が賛同した。

【判決の理由付け】

まず、合衆国憲法修正第8条には「過大な額の保釈金を要求し、または過重な罰金を科してはならない。また残酷で異常な刑罰を科してはならない」(Excessive bail shall not be required, nor excessive fines imposed, nor cruel and unusual punishments inflicted)とあり、この規定は、修正14条を通じて州にも適用される。これはFurman v. Georgia事件で確認されたことである。そしてAtkins v. Virginia事件で判示されたように、修正8条後段に言う「残酷で異常な刑罰」の禁止は、凶悪犯であっても人間としての尊厳を重んじる義務が合衆国にあるということを意味する。
そして条文の解釈は、その文言、歴史、慣習、前例、立法の目的と機能を鑑みて行わなければならない。その際の判断基準は「時代の行為基準」(”the evolving stadards of decency that mark the progress of a maturing society”)に依拠すべきだ。これはTrop v. Dulles事件で定立された規範である。
しかし「時代の行為基準」とは何か。参考となるのは合衆国内のコンセンサス(national consensus)の成否であるとされる。1988年のThompson v. Oklahoma事件において、連邦最高裁過半数は、犯行時16歳未満の者に対する死刑執行は「時代の行為基準」に照らして許されないと結論付けたが、多数派意見は次の点を重視した。すなわち、第一に死刑存置州において16歳未満の者は死刑適用がないこと、第二に16歳未満を死刑にしないことは国際潮流であり、第三に1948年から16歳未満の者の死刑執行はされていないことである。同判例では、この他にも未成年は非難可能性が低いことや16歳未満の者に死刑を科すのは抑止効果がないことなども指摘しているが、翌1989年のStanford v. Kentucky事件では合衆国内のコンセンサスが最重要視された。同判例では、16歳と17歳の未成年に対する死刑の可否について検討しているが、その際各州の状況を詳細に観察している。当時、死刑存置州37州のうち16歳以上の未成年に対する死刑を許容している州は22州であり、17歳以上だと25州だった。そのため、連邦最高裁は当該事項に関する「合衆国内のコンセンサスは存在しない」とし、16歳と17歳の未成年に対する死刑は「残酷で異常な刑罰」に当たらないとした。また、コンセンサスのとれない中で独自の見解を示すことも連邦最高裁は断固拒否(”emphatically reject[ed]”)している。
Stanford v. Kentucky事件と同日に判決が下されたPenry v. Lynaugh事件では、精神遅滞者に対して死刑判決を下すことが「残酷で異常な刑罰」に当たるかどうかが争われた。ここでもコンセンサスの成否が問われ、2州が精神遅滞者に死刑を科しているため、当該問題について合衆国内にコンセンサスがあるとは言えないと判示している。よって精神遅滞者に対する死刑は「残酷で異常な刑罰」に当たらないとされた。
だが、Atkins事件でこの判例は覆される。連邦最高裁は、Penry判決以降、精神遅滞の見られる犯罪者に対する死刑を禁じる立法が、各州で相次いだことを指摘し、これは国内のコンセンサスが形成された証拠だと述べた。そのため、精神遅滞者に対する死刑は修正第8条に言う「残酷で異常な刑罰」にあたるとした。
さて、本件において連邦最高裁の多数派は、以上のような判例を引きながら、結論としてStanford判決を変更し、犯行時に18歳未満である被告人を死刑に処すことは「残酷で異常な刑罰」にあたるとした。まず、18歳未満の未成年への死刑は禁止すべきというコンセンサスはStanford判決以降の間に成立したとしている。なぜなら、30州が18歳未満の者に対する死刑を禁止し(30州のうち18州が成人の死刑は行っているが、18歳未満の者への死刑は禁止している)、他の12州は死刑自体を禁じているためである。そして、18 歳未満の者に死刑が執行されたとしても統計上大変珍しいものであるとして、「時代の行為基準」から判断すれば、18歳未満の未成年は「平均的な犯罪者よりも有責性が少ない(”categorically less culpable than the average criminal”)」と見られているとした(この表現は多数意見がAtkins判決から引用したものである)。ただし、反対意見ではこの合衆国内のコンセンサスについて否定的であり、疑問が呈されている。
多数派意見では、他にも未成年と成人の違いを指摘している。また、国際的潮流も根拠として挙げているが、これについて反対意見は国際的潮流を取り入れることに対して批判的である。

コメント

連邦最高裁判決についてだが、個人的には、反対意見であるScalia判事のものに面白みがあると感じる*1
Scalia判事は、裁判所の役割とは立法府陪審員によって確立されたコンセンサスを確認することであり、Stanford判決以降の間にコンセンサスは成立していないとして多数意見を批判している。ほんの少数でも不一致な州があれば、コンセンサスはないと考えられていたのだから、確かにPenry事件とAtkins事件との間でハードルが下がっているように思われる。さらに、Scalia判事は法制度は国によって異なるのだから安易に外国法や国際法に依拠すべきでないし、まして合衆国憲法陪審制を蔑ろにするために引用しているとしたら、到底受け入れられないとも述べている。読んでいて「国際潮流」というだけで結構誤魔化すことのできるのは日本だけではないのだな、と思った。そしてこの判決は州と連邦の関係や陪審制に対する態度を映していて、大変興味深いものとなっている。

なお、今月8日にはネブラスカ州最高裁が電気いすによる死刑執行は「残酷で異常な刑罰」に当たるとして違憲判決を下したらしい。このケースは果たして連邦最高裁に上訴されるのだろうか。上訴されたとしたら、今度はどのような判断基準が提示されるのだろうか。

*1:事実審の方については述べない。でも読んでいて苦しくなるような惨い事件だと思う