ざっくりとGATTとWTO協定の関係を説明する

現代の国際通商における法制度を語る上で外せないのが、WTO協定である。本稿ではWTO協定とは何かについて歴史的経緯から描写してみよう。

戦争と理想の失敗

高校などで世界史を学んだ人ならたぶん記憶の底にあるだろうが、世界恐慌のときに英連邦ブロックとかスムート・ホーレイ関税なんてものがあって、「苦しいときは身内だけで固めるだろJK!他所が困っても知ったことか!」とばかりに近隣窮乏化政策を打った。この政策の煽りを受けたのが植民地の少なかった日本であり、第二次世界大戦の遠因になったと一般的には言われている。

こういう反省をもとに、自由で安定した金融・貿易システムを作ろうという機運が高まった。主体となったのは、IMF・世銀(IBRO)・国際貿易機関(ITO)。これをブレトンウッズ体制という。

1948 年にはハバナ憲章を53カ国が署名した(ちなみに署名というのは、条項の確定のみしか意味しない。効力を発生させるには各国の「批准」が必要である)。 ITOを実施機関として、物の貿易だけでなく制限的商慣行や国際商品協定など、国際通商の全範囲にわたる原則を作ろうというとても野心的なものだった。

でも、ITOはちょっと理想主義すぎだった。そのため、米国ほか主要国がハバナ憲章批准を拒否してしまったのだ。

「その場しのぎ」が本流に

ITOが「流産」してしまったおかげで重要性を帯びたのがGATTである。当初GATTは、関税引き下げの実施規則として作られ発効したもので、要するに本来は「その場しのぎ」のものにすぎない。現にGATT29条には、ハバナ憲章への取り込みを予定した記述がある。

というわけで、GATTは予期せぬ長期化を強いられた。でも、結果的には成功だったのだ。幾度かのラウンド(多角的貿易自由化交渉の通称。とりあえずは、いろんな国が集まって交渉する場くらいの認識で良いと思う)を通して、先進国の鉱工業製品に関して言えば、自由な貿易の障害とならない程度には関税が引き下げられたし、紛争解決手続も少し整備されていった(GATT22〜23条)。

そして大きな分岐点となったのが、8回目にしてGATT最後のラウンドであるウルグアイラウンドである。

貿易自由化の拡大とシステムの整備

ウルグアイラウンドでは、今まで物だけが対象だったが、サービスや知的財産、投資なども対象となるなど新分野が導入された。さらに、通商制限が依然として多かった農産物や繊維製品にもメスが入れられた。農業というのは労働集約的であるため、農家の政治力は強いという事情はおおむねどの国も一緒である。そのため、各国はいろいろな障壁を立てて自由な貿易を阻止していた。これが数量制限については解消され、他の制限も段階的に自由化することで合意されたのである(農業協定に関する詳細はまた今度)。

こうした内容的成果もさることながら、機構的な成果もあった。そのひとつが国際機関としてのWTO の誕生である。国際機関としてのWTOの基礎を規定するのがWTO協定(世界貿易機関を設立するマラケシュ協定)であり、WTOの権限、組織、意思決定手続などが定められている(ちなみにWTO加盟国は、協定本体および付属書1〜3の義務を一括許諾しなくてはならず、「選り好み」はできない仕組みになっている)。

それでWTO協定の付属書1Aのなかには、GATT1994と呼ばれる規定があり、旧GATT(GATT1947という)の規定がほぼそのまま流用されている。法的には両者は別物(2項4条)で、旧GATTは95年に失効しているが、GATTWTOのなかに取り込まれたと言って良いだろう。

まあウルグアイラウンド以降は、発展途上国WTO不信などもあり、実体的にはほとんど進捗はないので(紛争解決の積み重ねはあるけれど)、歴史的経緯の説明はこれくらいにしておこう。