言葉と自由の話

最近4日くらい家から出てなかったのですが・・・私が知らない間に、家から一番近い横断歩道が10mほど先に移動していました。 こりゃ、ネットの人とかひきこもりって言われてもしょうがないわ・・・。でもやっぱり横断歩道の消された白線見たらへこみます。


で、ひきこもってる間にジョージ・オーウェルの『1984年』を再読しました。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

監視/管理社会の枕詞として使われることが多い作品ですが、言葉と自由の関係性の考察や哲学ありロマンスありですごく面白くて、かつ鮮やかで身を切られるようなラストが印象的な、たいへん優れた作品だと思います。おすすめ。

言葉と自由

印象に残ったのは、言葉を規制することで思想も規制する様子の描写でした。ニュースピーク(New speak)という形で、故意に言語破壊をすることによって、つまりシニフィアン/意味するもの/言葉を破壊することでシニフィエ/意味されるもの/概念および思想の縮小を図り、最終的には思想の消滅を企てて、何も考えない人を増やそうとしているのです。それは新語法の辞書を編纂しているというサイムの以下の言葉に端的に表れています。

新語法の全般的な目的は思想の範囲を縮小するためだということがわからないのかね?終局的には思想犯罪も文字通り不可能にしてしまうんだ、そうした思想を表現する言葉が存在しなくなるわけだから。


自由の概念が廃棄されたら、『自由は屈服である』というスローガンの存在価値はあるだろうか。思想の全潮流は一変してしまうだろう。現実にいまわれわれの理解しているような思想は存在しなくなる。正統とは何も考えないこと―考える必要がなくなるということだ。正統は意識を持たないということになるわけさ。

ジョージ・オーウェル 『1984年』 P68、P69)


言葉を消すことで概念まで消せるとは到底思えませんが、でも共有されない概念なんて存在しないのと一緒という思考にはなんとなく納得できるものがあります。*1


さて、現代はオーウェルが描いた世界とは異なっているように思えますね。言論の自由が保障されていますし、マスメディアの発達が著しいからです。でもそれは形式的なものであって、実質的には言葉の規制があると言ってしまえるのかもしれません。このことに関して森巣博は、森達也との共著『ご臨終メディア』のなかで、

大本営発表を、ジャーナリズムが、その発表に質問を挟まないまま、書き写して伝える。やはりこれは一つの大きな意思によって世論が誘導されていると言っていいと思います。ただここで問題となるのは、どの大きな意思が、指定できる特定の個人ないし集団から発せられていない点です。(森達也森巣博共著 『ご臨終メディア』 P73 集英社 2005年)*2


と指摘しています。
その例として、アブグレイブ刑務所の問題が報道されたときに、アメリカでtorture(拷問)と ill-treatment(虐待)の表記が入り乱れ、やがてtortureに統一されたということを挙げています。日本のメディアではすべて「虐待」に揃えられていました。国際法上はtorture(拷問)が正しいのだと思います。
これはおそらくですが、政府の最初の発表のなかに「虐待」という表記があったので、そのまま無自覚に通したのでしょう。政府が強制しなくてもマスメディアは無自覚にそのまま広報*3していて、視聴率と抗議へのおびえに自縄自縛になっているのです。市場主義によって報道の生命線の一端を担い、視聴率と抗議の主体となるはずの受け手の側も、

あんな番組はくだらないと思って見ています。しかし、自分だけがそう思っていて、自分以外にその番組を見ている人は、そう思ってないバカだと考えているのですね。多くの人が、同じように思いながら、アホ番組を見ている。その集積が、視聴率を作っているのだと思います。(前掲書 P45)


というような状態なのです。少なくともサイムは、彼なりのジレンマを抱えながらも、自らの破壊行為を意識して行っていました。*4しかし現実には、送り手も受け手も自らの行為がもたらす影響に無自覚なのです。
1984年』の世界では、強力な個人がある程度主体的にことばに縛りをかけていったのに対して、現在日本の報道のあり方は、無自覚に自分自身を規制していると言えるでしょう。この2つの世界は、サルトル的世界(実存主義)とデリダ的世界(構造主義)くらい違います。

自由と管理

オーウェルは環境/構造管理型統治社会をも提示しています。管理を意識させないで、管理者の条件を盲目的に受け入れさせるような設定も成されているからです。
環境/構造管理型統治社会とは何でしょうか?その典型例として挙げたいのはファストフードの椅子の話です。ファストフード店の椅子はたいてい少し硬い物が設置されています。これは座り心地を悪くすることで客に長居をさせず、回転率をあげて利益率の向上を図るために成されているのですが、ほとんどの消費者、あるいは店舗の従業員ですら、気がつかないと思います。このように、設計者によって環境/構造が決定され、知らないうちに行動を管理されている場合は多いです。外食産業に限らず、様々な事例に演繹可能でしょう。
注目していただきたいのは、この例は政府などの公権力が行った設計ではなく一民間企業が行っていることという点。企業など私的な団体であっても特定の環境を設計し、設計された環境の積み重ねと重ね合わせが環境/構造管理型統治社会を構成しているのだと思います。すなわち、こうした別個の環境設定/設計は、強力な個人/集団によってではなく、集合として自律的に行われています。ここでも先ほどのようにサルトル的世界とデリダ的世界の違いが見て取ることができるでしょう。しかも、現在/現実には、自由と管理は共存しているという点も『1984年』と異なっています。
どういうことかと言えば、ネットの例を挙げると、私たちはウェブサイトやブログの開発によって自己発信の手段が、以前より容易に得ることができるようになりました。表現の自由がより実現しやすくなったと言って良いでしょう。そして、そうした情報技術は管理されることによって、つまり他者に設計を委ねたり、システム管理をしてもらうことによって安全性が担保され、簡単に操作できるようになっているのです。
この場合において「自由か不自由か」の差異を問うことの意味自体が喪失していると考えられます。他者によって管理されているという側面から見れば不自由ですが、視点を変えれば、管理されることによって自由を得られるという面もあるからです。


以上のような議論は、まるで二重思考のようです。

一つの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け容れられる」(ジョージ・オーウェル著 『1984年』 P275)


ことが必要となってくるからです。
実際、環境/構造管理型統治社会に適応していくため、現代人はこうした解離的心性を備えつつあるように思われます。
より正確に言えば、解離は2極ではなく多極化していますし、一応主体となりうる心性も存続しているので、部分的他者があると言えるのではないでしょうか。

*1:まあ、そもそも概念の共有というもの自体が幻想だという考えもできますが・・・

*2:

*3:もはや報道ではありません

*4:作中でサイムは言語破壊を「美しい」と表現しています。しかし彼は、多くの語彙がもつ曖昧なニュアンスを嫌いながらも、言葉のもつ音韻の美しさを捨て切れなかったのです