ユビキタスと私的利用

id:cedさん*1のところのubiquitous Creative Commons - cultivating the field of private useという記事について。

全ては「リーチ(reach)」の問題だと考えている。インターネット登場以前は、著作権法は個々人が著作物を私的利用する領域に「リーチ」することはできなかった。だから私的利用という行為が一体何であるかを敢えて明確に定義化する必要もなかった。何しろそれは法律の手の届かないところで行われている行為全般を指す抽象的な概念だったからだ。そう、私的利用という概念は極めて抽象的な概念だった。ではインターネットが登場した後何が起ったのだろうか。

雑記帳 ubiquitous Creative Commons - cultivating the field of private use

というところを読んでreachのところで勘違いをしていた私に以下のインタビュー記事を紹介してくださいました。
http://homepage3.nifty.com/machina/r/ccinterview.html
そしてさらに

私の疑念はこの「使用」以上に「利用」がどうなるのか、という点に焦点を置いてます。著作権法に「私的利用」という概念は存在しません。あるのは「私的使用」のみです。というのも、著作権法は著作物を大々的に「利用」できる環境(インターネット)を想定していなかったからです。

Lessig教授はその後DRMではなくDRE(Digital Rights Expression)が重要ってなことを言ってます。著作物の使用・利用を規制する技術ではなく、自由にする技術、といったところでしょうか。ただ、 Richard StallmanはDREが容易にDRMに転化してしまうので問題だと言っていて、私もそれには同意です。

というコメントをいただきました。
「使用」と「利用」は違うって初めて知りましたよ・・・。さらにDRMとDREの差がよくわからなかったのでちょっとだけ調べてみました。

デジタル著作権管理 (Digital Rights Management, DRM)とは、電子機器上のコンテンツ (映画や音楽、小説など) の無制限な利用を防ぐための技術の総称。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
e-Words

DRMは調べがつきましたがDREってあまり解説されていないですね。まあGoogleで検索したものをつらつらと読んだところによると、DREは著作(権)者による柔軟な著作権定義、つまり「この作品は、こういうふうに使ってね」という意思表明を表すものと考えられます、たぶん。DRMと違う点は技術的強制力を持たないところでしょう。

「DREが容易にDRMに転化してしまうので問題だと言っていて、私もそれには同意です」という意味も、これでなんとなく理解できます。現行法の下では転化を正当化できるし、技術的にも可能なら実装したくなるのが道理というものでしょう。



さてさて、CCがユビキタスになった日本を席巻するかどうかと言われたら微妙・・・だと私は思います。
なぜなら再三述べていることですが、CC使うかどうかは本人の意思だってところ…つまりCCを利用して得られるものが不明瞭であるというネックに変わりないと思うからです。*2みんな因果応報、情けは人のためならずってとこに気付けるでしょうか?

でも鈴木健氏たちが試みているPICSY。ああいったものが導入されればまた違うのかもしれません。でもまた別の弊害もありそうな気も、というようなことを書いたところ、cedさんからはこんなお言葉が。

これはこれで深い深い哲学的問題が、ってこれも長くなるので保留。

ちなみに鈴木健さんもそうだけど、私もインターネットを考えるときはウィトゲンシュタインという人の哲学(前期と後期があります)をフレームワークに使ってます。

どう使うかは後々記事にしてくださるそうなので、期待期待。*3

*1:まいどネタ提供ありがとうございます

*2:だから啓蒙主義的とか地道な作業とかおっしゃってるのでしょうが

*3:書いてね。