DREとDRM
cedさんにご紹介いただいたLessigの記事
http://www.lessig.org/blog/archives/001067.shtml
これの一部を適当に訳してみました。はっきり言ってかなり超訳。でもまあ大意はつかめるかと。*1
Docがパブリックドメインへのコンテンツの寄進を推進させるための素晴らしい投稿をしています。けれども、Docの貴重な推薦の言葉の中で彼は以下のように書いています。
私はUserlandとCreative Commonsの人々がここに創ったのは、DRM(デジタル著作権管理)システムの接頭語の意味を文字通り最も良く表すものであると信じている。
私はDRMとDRE(デジタル著作権管理 対 デジタル著作権表明)の違いを明確にすることが有用であり、且つ重要なことであると考えています。*3
DRE(digital rights expression)は(1)権利の表明を行うだけの技術です。DRM(digital rights management)のmanagementは(1)権利の表明と(2)権利の強制執行、どちらの技術(コード)をも意味します。
DMCAの議論で明確になった理由を別にしても、DRMシステムには多くの問題点があります。それはまさにコードが著作権の強制執行に使われるからです。
コードは、フェアユースを正確に見つけて記録するなんて絶対しちゃいけないし、今あるコントロールの代償を批判する権利を決して保有してはいけません。まあ他にもいろいろと。
DMCAについての議論されたことのすべてが明らかにしたように、DRMシステムには正にコードが著作権の強制に用いられいるからこそのさまざまな問題があります。コードはフェア・ユースを正確に位置づけることが決してできない、現状のコントロールの範囲を批判するための権利を決して確保できない、などなど。
だからDREはDRMからmanagementの部分を引いたものなんです。
DREシステムは、自由にできることってなんなんだよ、という人のために効率の良いやり方でできるようにしただけなんですよ。DREシステムは単に、人々が自らが何の自由を与えているかを宣言する効率的な方法を実現します。"all rights reserved."がデフォルトな世界において、CCDREは「俺のコンテンツは、こんな感じのことなら勝手にやってくれていいからさ」という人が、そう言えるようにする簡単な方法です。
こんなふうなCC的自由はもちろん、フェアユースで保証されてる自由はそのままに、フェアユースに付け加える形になってます。でもフェアユースは、私たちの考えでは、充分とは言えないんです。フェアユースで保証されてる自由よりもっと豊かな自由をコモンズは必要としてるわけです。つまりCCは
自分のコンテンツのまわりから自由を広げようっていう自発的な人たちを支援します。人々が彼らのコンテンツの周囲にある自由を自発的に増加させていくことを可能にします。
CC的自由っていうのは、いろんな意味でとっても大切なステップだと思います。でも、コンピュータによって自由の制限を強要するかもしれない技術とは大切なところが違っている、とも思います。
だからDREはDRMじゃないんです。
最後にひとつ技術的な点を。
CCライセンスは、フェアユースをきちんと守らないDRMシステムと一緒にCCの技術を使ってはいけないってはっきり明言してあります。私は、きちんとフェアユースを守ってるDRMシステムに、まだお目にかかったことがありません。だから私の考えだと、CCライセンスとDRMシステムをまだ一緒に使うべきじゃないかな。少なくともCCライセンスが課すコミットメント責任を深刻に受け取るならね。
コメント欄で「まあ大体はわかった」とか書いちゃったけど、実は大丈夫か不安だったので一応載せてみました。本当に、間違えなどがあれば訂正よろしく・・・。
追記
cedさんより訳のご指摘をいただきました。delってるのは、ご指摘による修正です。ありがとうございました。