涼宮ハルヒは民主主義の敵か?

茶会の人たちとSkypeで喋ってたことをまとめてみました。
次回の茶会では、こういったこととかを話す予定。

データベースとサーチエンジン

データベースが無限にあるといっても、所詮私たちは、サーチエンジンという窓を通して情報を得ることしかできません。だからそのデータベースにアクセスする手段の管理によって、「何か」を実現するが可能です。「Google八分」に関心が集まっているのは、このような認識が広まっている現れでしょう。*1
でも同時に、アクセスする窓は複数存在する/併存する、そういう社会になってるのかもしれません。Googleの一人勝ちが喧伝されていますが、そうは言っても様々な検索エンジンが日々しのぎを削っています。


さて、少しメタな視点に立ってみましょう。
前述の場合、データベースとサーチエンジンを上下構造、つまりサーチエンジンをデータベースにアクセスするためのツールとして捉えましたが、データベースとサーチエンジンを切り離して考えるべきなのでしょうか?
データベースは複数あって、サーチエンジンも複数あって、相互作用って感じで動いているというのが実情なのかもしれません。でもサーチの動向を注視している方には、複数あるデータベースをまとめた、一つの巨大なデータベースを想定して、それに対して各種のアプローチができるサーチエンジンが形成されつつあるという感触もあるのではないでしょうか。言うまでもなく、Googleがそれをやっていますね。

Google is set to announce tomorrow a broad set of partnerships with enterprise software companies, including Cognos, Oracle, Salesforce.com, and SAS.

http://business2.blogs.com/business2blog/2006/04/scoop_google_en.html

という話が少し前にありました。Googleだけじゃなくて、独自のDBもってる企業が協力しています。


でも、Googleがやっていることは、彼らの持つデータベース、それから彼らに賛同する企業のデータベースに対してです。もちろんそれを無限にふくらまそうとはしていますけど。
しかしもっと大きなデータベースもあります。overtureとか、図書館とか、新聞とかです。そういうリアルを含めた情報をあつめて、無限の大きさを持つデータベースに対して、検索をかけることが今後できるようになるのではないでしょうか。
そのとき、データベースは公共財になって、それに対してアプローチするサーチエンジン、そのルールとか、方法とかが、差異を生むことになるのかもしれません。


こうした言説は非常に説得力があります。でも、本当にそういう方向性なのでしょうか?データベースって公共財に成り得るのでしょうか?
プラットフォーム自体が公共性を持つものと言って良いでしょうが、公共性を持つものと公共財はイコールではありません。よって公共財とはいいにくいと思います。まあ、どういう情報化にもよるとは思いますが。あと、財とシステムも違うものですね。


重要なのがどこかを問うと、やっぱり検索のシステムの部分ではあると思います。けれど、そこが一つである必要はありません…一つになると、googlezonになるんでしょうか?

フォルクソノミーとdailyme

また、セマンティックってどうなのだろう、という問題もあります。
オントロジーとかOWLって言われてる分野が今後将来性があるとはどうしても思えません。だからフォルクソノミーの集合体*2で何とかする、みたいな方向性になっていますね。少なくとも現時点では。
どれだけ遠い未来を想定するかにもよりますけど。


フォルクソノミーの集合体は、いけるのではないかと思います。本格的なタグスパムがでると対処でないものの、現状のはてブをみるかぎりノイズタグは淘汰されているようにみえます。
まあ、最終的にはフォルクソノミー云々よりも自分のための分類ツールのような気がしますが。でも、最終的にみんながほしがるのは、自分のための分類ではないでしょうか?


結局、窓から自分のほしい情報が見えればユーザは満足なのでしょう。要するにdaily meです。こうした視点に立つと、フォルクソノミーはその窓の拡張にすぎません。下手なタグスパムでも自分の関心がないタグならばフィルタリングできますし。


フォルクソノミーによるソーシャルニュース。diggはてブがあれだけはやると、タグでdaily meを作るのはありうるでしょう。
あとは、一次情報が、dailyme化される仕組みですが、それはRSSが主導するでしょう。

涼宮ハルヒは民主主義の敵か?

これって結構怖い未来像だとは思いませんか?本当に実装されたら、すでに窓すらいらなくなって、人はひな鳥のようにRSSが運んでくる情報を口をあけて待っているだけで済みます。目なんて開いていなくても。
確かにdailymeは居心地が良いです。でも居心地が良くても、社会性を失うと、それは問題です。例えばスケートの話題を知らなかったりね。
Sunsteinが述べたように、自由の強制っていうものが冗談では無くなるかもしれません。*3


でも、共通の話題があることが、すなわち社会性でしょうか?例えば、自分ひとりがイナバウアーを知らないと物笑いにされてしまうかもしれませんが、皆が知らなければそれで良いということにはならないのでしょうか?
共通の話題がもてなくなれば、社会性の基盤は失われることになります。今の社会は個々人が自由に情報を得ることもできますが、新聞とかテレビを使って不特定多数の人たちが共通の話題をもつことができるわけです。でも、daily meの世界が実現してしまうと、そういった不特定多数の間で持っていた共通の話題が消滅する。話のネタにこまるだけでなく、共通の認識がなければ同じ土台に立って話せなくなってしまうのです。


でも、これは事象の半分にすぎません。
共通の話題がもてなくなることのほかに、ノイズの問題もあります。自分の知らない、放っておけば知ることのなかった情報はdaily meの世界では入ってきません。情報においても偏食しすぎると健康を損なう恐れがあるということです。

人は自分の意見に近いものばかりを選択するようになり、想像もしていなかったような人や集団との出会いを遠ざける危険とそれに伴う集団分極化の可能性が出てくる。
同じ意見を持った人同士の議論はより極端な立場へのシフトの可能性が大きい。
つまりインターネットを含む新テクノロジーは、同じ考え方の孤立した人たちの意見(エンクレーブ型討議:閉じたグループ内の討議)を拾い易くなるが、競合する意見には耳を貸さなくても済む文化を生む。

『インターネットは民主主義の敵かRepublic.com』 Cass Sunstein著、の要約/書評
http://miyajee.e-city.tv/internetwaminsyusyuginotekika.html

共通の話題を強引にいれるしかない、のかもしれません。Sunsteinは言っているように。まあ、何かノイズを発生させる仕組みは必要になるでしょう。
完全な崩壊はなかなか無いだろうけれど。たぶん、道路にゴミが多くて困るとか、隣の家の騒音おばさんがうるさすぎるとか、そういうことから、社会に対する関心は発生するでしょうから。最後の砦は政治になるのかもしれません。


逆にタコツボ化した人たちが、強制的にその他の人間に話題を働きかけるという動きはでてくるのでしょうか?それは、たこつぼ化した人たちが、そのたこつぼの中だけではいられなくなったときに、発生するのかもしれません。外圧に対して抵抗するとか。自分の事情を理解してもらわなくてはならなくなったとき、とか。「あのアニソンをオリコン一位にしようぜ」 とか言ってる人たちはなんかそれのような気もします。要するに布教活動ですね。
でも、布教活動とはいえネタです。騒いでくれる人がいなかったら、普通、沈静化してしまいます。


やはり何らかの仕組みが必要となってくるでしょう。山形浩生がcodeのあとがきにこんなこと書いています。

ぼくたちは人に、いやなことを積極的に引き受けろと説得しなきゃいけないことになる。自分でもそれを引き受けなきゃいけない。不完全さに価値があるそこに価値があって(原文ママ)、著作権が完全に管理しきれないことに価値があるとか、人が見たくもないものでも見なくてはいけないようにすることに価値がある、という考え方そのものを受け入れてもらわなきゃいけないことになる。(pp447-448)

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

法律の規則は不完全だ。刑に服する覚悟さえあれば、法律に違反することはできる。その意味で、これまでの著作権やプライバシーの保護は不完全だった。でも、その不完全さには価値がある。これまでは人の追跡が不完全にしかできないので匿名性が保証されていた。でも、匿名でなにかできることには価値がある。著作権には保護しきれない部分がある。やろうと思えば私的なコピーを作って友だちにあげることができるし、引用もできる。でも、そういう保護の不完全さには価値がある。そしてこれまでの規則は、意識的にその不完全さを保護している部分と、物理的に保護しようがないから放置されていた部分とがある。
 でもコードによる保護が完成したら、だれもその不完全さを保証してくれない。コードによる「規制」は物理的な規制だ。コピーしようとしてもできない。フェアユースの入り込む余地はない。匿名性も、ほぼ完全に失われるだろう。商業にも、政府にも、敢えてそんな「欠陥」をシステムに作る理由がないからだ。
 でも、とレッシグは論じる。これまでの各種仕組みの不完全さは、憲法上の価値を保証する欠陥でもあった。だから、今後そうした憲法上の価値を保存したいなら、きちんと規制をかけて、その欠陥を敢えてシステムに作りこまなきゃいけない!もし、ネット上の匿名性に価値があるのなら、各種認証に不完全性を組み込まなきゃいけない、もし著作権の不完全さに価値があるなら、コードの著作権保護は不完全にしなきゃいけない。人に、見たくないものを見せることに価値があるなら、情報のフィルタリングは不完全にしなきゃいけない。それを政府の規制によって実現しなきゃいけない。(p442)

でも、これはとても難しい作業ですし、たとえ可能であったとしてもdailymeの実装までに間に合うかどうか・・・。たぶん不可能だろう、と山形浩生は言います。でもしなくてはならないことです。
でも、少なくとも、「他人に不快感を与えてはいけない」という感情論を少しだけ見直さなくてはならないでしょう。不快感を与えるだけでは何かを否定することはできません。そして不快であったり興味のないものを見ること、それ自体に価値があるのです。