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404 Blog Not Found:「若者殺しの時代からの逃走と闘争」アンカテ(Uncategorizable Blog):「80年代にバブルに窒息して死にそうに苦しかった私を救ったのはsmalltalk」、それから昨日茶会で聞いたことをからめて。


近代国家に必要とされるものは2つあります。ひとつは階級的序列。*1そしてもうひとつは集約の名目としての戦争です。*2前者は格付けによって上昇志向と合理性を奨励するもので、後者は科学技術を発展させたり国民として人々をまとめる目的設定です。


敗戦後日本は、おそらく民主主義の実験場として、上述した要素のひとつである「儀礼としての戦争」を除去された状態になりました。モダンな指向をひとつ喪失したわけです。
またポストモダニストの台頭で「どのタイプの言説/文化が一番高いのか」という言説が無効とされ、価値観は一見すると相互互換できるフラットなものとなり、格付けも意味を見出しにくくなりました。
こうしてほぼ唯一のポストモダン国家がうまれたのです。この実験はなかなか成功と言えました。軍備をしないことで身軽になった日本は、「戦争」の代替インセンティブとしての「経済戦争」に勝利し、インフラを安定させ、巨大な遊戯空間でふわふわとぐだぐだする環境を整えました。日本は最終国家となったのです。そして、この状態がピークを迎えたのが80年代なのでしょう。

八○年代の日本ではすべてが虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構が続く限りは生きやすいものだった。筆者は、その浮遊感の、言説における現れがポストモダニズムの流行であり、サブカルチャーにおける現れがオタク系文化の伸張だったと捉えている。
そのような浮遊感は、あらためて言うまでもなく、バブル崩壊に始まり、阪神・淡路大震災オウム真理教事件援助交際や学級崩壊が相次いで話題となった九〇年代にはほとんど消滅してしまった。


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) p31


さて、そうは言っても最終国家の基盤を支えるのは、とてもモダンな努力と思考です。モダンがだめになったわけではありません。国家をうまく効率的に動かすには、やっぱりモダンが最適だからです。でもモダンな人間は、最終国家では日陰者な感じです。

ものごとをきちんと考えるというのは、80年代後半には、非常に軽蔑されることで、そういう人間は肩身が狭くて居場所がなかった。そういう指向の人間は世界に不要なんだと思いこんでいた。


アンカテ(Uncategorizable Blog):80年代にバブルに窒息して死にそうに苦しかった私を救ったのはsmalltalk
http://d.hatena.ne.jp/essa/20060521

しかし繰り返しますが、ふわふわと遊んでいられるのはモダンさが透徹された基盤があるからです。日本はそこをほぼアメリカに頼りきる形で存続してきました。そうして90年代以降、様々な形で最終国家としての問題が噴出してきたわけです。


では、小沢一郎がかつて述べたように日本は「普通の国」になるべきでしょうか?
でもガチで戦争やると世界が滅びかねないということは60年代に明確になりました。つまり儀礼としての「戦争」を戦争でするとまずいのです。だから日本は、唯一の最終国家として、ポストモダンな解答を示すことが必要な気がします。*3


そこで有効な態度とはなんでしょうか。ひとつの解答は既に提示されています。

私は何も、さらに後に続く世代のために、負けを覚悟で血みどろの戦いをせよと言っているのではない。その方が、逃げ惑うよりよっぽど生存率が上がるからだ。あなたを追う対象に背を向けては、それがあなたにどれだけ肉薄しているかはわからない。後退するなら後退するで、あえて正面を向いて、反撃しつつ後退するのだ。


404 Blog Not Found:若者殺しの時代からの逃走と闘争
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50501951.html

踊らされていることに自覚的になって踊っていてもしょうがないのです。日和見を決めているのではなく、アイロニカルに何もしないのではなく、あえて新しい解決策を模索する方がマシです。


で、これを茶会的に具現化します。*4
まずポストモダン儀礼的戦争の条件は、1)総力戦(やってるひとたちはマジ)であり、かつ2)そこまで被害が甚大でないもの、そして3)勝敗がはっきりするものです。*5
よってドーピングOK、機械化OKのオリンピックの開催をすれば良いではないか、という結論になりました。*6
科学技術の粋を結し、メンタルトレーニングとか薬学とか様々なアプローチを可能にすることで、アスリートだけでなく国民全員の参画を促するらしいです。また石油やレアメタル、領土などの資源分配をそれで決定すれば、結構真剣になるのではないかということです。
以上は、まあなんというか、茶会らしい案なわけですが。でも一理あるのではないでしょうか。

*1:モダンにヒエラルキーは必然です。逆説的に聞こえますが、民主主義とヒエラルキーは矛盾しません。

*2:1984年」にあった仮想敵国との戦争を想起してみてください。また、「国家の存続には敵の存続が必要不可欠」というシュミットの友敵理論もこの説の前提になります。

*3:でも社会主義国家が70年くらいで崩壊したことを考えると、最終国家も「結局ダメでした」という答えなのかも。中国やインドに追い抜かれるのは10年後くらいらしいですね。

*4:話半分に読んでくださいね

*5:経済戦争だと終局が見えにくく、カルタシス得られません。

*6:ちなみに「儀礼としての戦争」を聞いて、私はとなり町戦争を思い出しましたが、他のひとたちはガンダムファイトを想起したようで・・・結果、このような論理展開に。