folksonomyを懐疑する

はてなブックマークにみられるようなフォルクソノミーは、現在とても活況で便利です。沢山の人が参加しはじめて、出てくるサイトの量も多くなっています。web2.0でも注目されていますし。集合知の勝利みたいなところがあって大変面白いし、結構期待しています。


しかし、このような状態を維持するのは難しいのではないかとも思います。なぜかと言うと、はてなをやってる人ってガチで硬派な一部だという感じがしていて、*1その前提が正しければ、ユーザー層の広がりが今後も集合知につながるかどうかは不確定だからです。


もちろんキャズムをこえて利用拡大されることはなく、一部の人のみがタグをつけ続けて他の大多数の人はそれを追うだけという状況も考えられます。あるいは住み分けが進行するだけであるとか。
でもタグをつけるのって、誰か他の人に見せたいというよりは、自分用の分類のためという理由が大きいのではないでしょうか。そうであるなら、ユーザーが多くなるにつれ、利用者にとっての「ノイズ」が増える可能性は充分にあります。*2


つまり参加している人がどういう集団に属するのかによって、集合知の性質は全然違ってきます。でももちろん、このままblogsphereの住み分け状態が続くならば、フォルクソノミー、ひいては集合知は有効であり続けるでしょう。


しかし、それが民主主義にとって痛手だということは、以前のエントリーで述べた通りです。しかしそこを気にしていると、フォルクソノミーは機能しにくくなってしまいます。民主主義では多様性が尊ばれますが、フォルクソノミーにおいては構成員が多様になると、ある程度のところで、ユーザーとして質が望めなくなるからです。


もちろん私達ははてなだけでなく他のサイトを見ますし、TVや雑誌、新聞といった他の媒体からも情報を得ています。だから、わざわざこんな二律背反に思いを巡らせなくても大丈夫なのかもしれません。
しかしdailymeがより強固なものになれば、忙しいこともありますし、一つの媒体に頼りがちになってしまうでしょう。


ここまで考えるとやはりSunsteinが言ったように、共通の話題を強引にいれなくてはならないと思えるかもしれません。
でも先日の茶会で、資本主義社会において生きていくためには最低限何らかの経済活動をしなくてはならないから、そこでミニマムコミュニケーションが確保されるのではないか、との指摘がありました。この意見にかなり納得させられましたから、この点はあまり気にしなくても良いのかもしれません。


話を集合知に戻しますと、集合知がうまく機能する要件は、

  • 参加する人間が少なくとも積極的には対象となる事象にたいしてコミットしようとしていて、
  • 意見が拡散するくらいには多様性が確保されていて、
  • かつ生産的な議論ができる

ということになるそうです。
この状態を維持するのは、かなり難しいのではないかと思っています。ずっと人々が向き合ってきた問題でもありますから。
大切なのは、こうした要件を満たすような環境を整えることです。フォルクソノミーは、こうした意味での集合知を助長する有効な手段となれるでしょうか?

*1:はてなは考察とか論考が多いのに比べて、楽天とかだと日記のようなポエムのような感じのblogが多い気がします。

*2:現在は関心の方向がある程度そろっているため、淘汰されていますが。