タブーに関する一考察

タブーは民俗学的術語です。インセスト・タブー(近親相姦の禁忌)のように使われ、「超自然的なもの*1によって決められた社会的禁止行為」が本来の意味です。レヴィ・ストロースは著書『親族の基本構造』でこのインセスト・タブーの問題に挑み「婚姻交換」の概念を打ち立てたわけで、タブーは構造主義と関係がありそうですが、ここではおいておきます。


さて、そのような「禁忌」の意味からタブーには人々が避ける事柄の意味があるわけですが、どの事柄がタブーにあたるかは明確でなくなってきています。


なぜなら、タブーは「場」に依拠しているからです。
例えば、「あの子の前で元彼の話はタブーよ」という場合。「あの子の前」という「場」では「元彼の話」がタブーとなりますが、この発言者と聞き手の間という「場」ではタブーとはなっていません。
これと同じ関係が、ジャニーズ事務所批判や部落問題などにもあてはまります。


今日、タブーがタブーとして機能しにくくなってきているのは、この性質と関係があります。通信技術の発達によって人々は多種多様な「場」を瞬時に行き来することができるようになりました。例えば、会議中にメッセを使って内輪だけで批判や反論したりもできるわけです。
普段自分のいる「場」でタブーとなっていることも、他の「場」では全くオープンに語られているのです。しかもその「場」は無数にあります。


ネットによって、私たちは表現の自由と複眼的視点を獲得しやすくなったと言えるのかもしれません。ただし、もちろんそれは「得ようと思えば」という条件付きです。自分と同じ意見を聞いていようと思えばそれだけをずっと聞いていることもできます。
今も昔も、自分自身の選択がわが身に降りかかってくるということは全く変わっていないのです。

*1:神様とか祖先の霊とか