『リナックスの革命』の私的なまとめ
- 作者: ペッカヒマネン,リーナストーバルズ,マニュエルカステル,安原和見,山形浩生
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2001/05/26
- メディア: 単行本
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情報の共有は影響力大の絶対善であり、自分の専門知識を広く公開するのはハッカーの倫理的義務だから、自作のソフトをフリーで提供したり、可能な場合は情報やコンピュータ資源にだれでも簡単にアクセスできるようにするべきだ
と信じているそうです。
だからハッカー倫理は
彼らの内的理論、彼らを動かす原動力
なのです。そしてそれは労働・余暇観、金銭・報酬観、ネット倫理によって特徴づけられると『リナックスの革命』の著者のひとり、ペッカ・ヒマネンは言っています。以下、それぞれについてまとめてみました。
ハッカーの労働・余暇観
私たちは普通、労働とはしんどくて辛いもので、でも我慢してやらなくてはいけないものだと思っています。裏を返せば余暇(leisure)は仕事から解放されるので楽しいのです。
あるいは労働こそが人生の目的だと考えている人たちもいますね。その場合、余暇(recreation)は労働のための充電期間になります。新しい仕事に取り掛かるために休んでいるわけです。
いずれにしても、労働と余暇は
きちんと線引きされているし、効率改善のために時間的にも機能的にも規格化されている
前掲書 p205
ことには変わりありません。
でもハッカーたちは実に面白がって熱狂的かつ自発的に「労働」しています。ハッカーたちに労働と余暇の分け隔てをする感覚は希薄で
どっちも情熱を持ってやれることがだいじで、漫然とした仕事も漫然とした余暇も無意味だ。一方、情熱を持ってできるなら、仕事と余暇に線引きがある必要もないのだ」。
前掲書 p205
例えば、パーソナル・コンピュータを作ったスティーヴ・ウォズニアックはプログラミングを「これほど夢中になれる世界はほかになかった」と思っているし、ハッカー文化の擁護者、エリック・レイモンドは次のように述べています。
ソフトウェアの設計と実現は楽しい芸術であり、一種の高級な遊びである。そういう考えかたは突飛すぎるとか、なんだか照れくさいとか感じるなら、ちょっと考えてみたほうがいい。きみは何か忘れていないか?金を稼ぐためにしろ、時間潰しのためにしろ、どうしてほかのことじゃなくてソフトウェアの設計をしているんだ?ソフトウェアには情熱をそそぐ価値があると、一度は思ったことがあるはずだ。
Raymond, The Art of Unix Programming (2000),chap. 1.
ハッカー的労働倫理とプロテスタント的労働倫理
このような発言からわかるように、ハッカーたちは仕事に情熱的に関わるという態度をとっているのです。ただし、ハッカーにとって情熱は
彼らのすることの全般的な方向性を規定するもの
『リナックスの革命』 p38
ということになります。すなわち、何かをかたちにするためなら、つまらない作業でも喜んで引き受けようと思うのです。
そして「ジャーゴン・ファイル」が強調しているように、ハッカーは基本的に「あらゆる種類の専門家もしくは熱中家であり、たとえば天文学のハッカーというものも存在」します。
ハッカー倫理と学術研究モデルの親近性が高いことはハッカーの活動の来歴を考えれば自明ですね。知的探求に情熱を傾ける態度は2500年前の古代ギリシアの時代から連綿と続いているということになるでしょう。では一見新興のような「ハッカー的労働倫理」の方が、その対立勢力よりも長い歴史を持っているのでしょうか?
マックス・ウェーバーは、論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)』(1904〜05年)のなかでこの対立勢力を「プロテスタント的労働倫理」と呼びました。ウェーバーは16世紀に生まれた資本主義精神の核には義務としての労働という概念があったと述べています。
この職業義務という特異な思想は、今日のわれわれには非常になじみ深いものだが、実際には決して当然の考えかたではない。この思想は資本主義文化の社会倫理にきわめて特徴的なもので、ある意味ではその根本的基盤である
とプロテスタント的労働倫理の自明性を切り捨て
労働は、あたかもそれじたいが究極の目的であるかのように、つまり神から与えられた使命であるかのようにおこなわれなくてはならない
Weber, The Protestant Ethic and the Sprit of Capitalism, pp. 54, 61-62
と人々に強いると看破しました。
この義務感を先鋭化し後押ししたのがプロテスタント勢力だったそうです。このことは、プロテスタントの説教師リチャード・バクスターが
神がわれらとわれらの活動を支えたまうのは行為のためである。勤労は体力の自然的目的であるとともに、倫理目的でもある
Baxter, Christian Directory, vol. 1, p.375
と述べていることからもうかがえます。
プロテスタント的労働倫理は、中世にはその原型が修道院のなかにしか存在しなかったのですが、宗教改革を経て広く世間に浸透し、資本主義と結託することで宗教の壁すら破って、それ自身の法則に従って世界を覆っています。*1情報革命が起こっても仕事中心主義は依然残り続けていますが、ハッカーたちはそれに異議申し立てをしているのです。
金銭・報酬観
しかしプロテスタント的労働倫理に対する異議申し立てという意味では、マルクスが労働過程で述べたこともそうですね。マルクスは「人間は労働する動物である」と言いましたが、これは、人は生産を通じて同時に自分自身を生産するということを意味していると思います。すなわち、自分で目的を定立し道具を使って労働することで猿とは違った生き物になるのでしょう。そして人が労働を嫌うようになるのは、本人にとって「えんもゆかりもないという形で命令」*2されるからだといいます。
内田義彦はこのことを「子供」を例にとって説明していて、
目的を定立し意志によって強制するという仕事が、子供自身から離れると同時に、一切の労働過程に属する指揮や制御は他人のものとなる。他人の立てた目的のために、他人の意志に盲目的に自分の意志を合せ、それに従ってただ筋肉と神経を緊張させるだけが子供の仕事となるわけです。こうして、労働はきらいになる
のだと言っています。
このあたりまではハッカー的労働観と似ていますね。*3人はお金のために働くのではなく、労働それ自体が楽しいから働くという考えという点では共通しているように思えます。
フリーソフトとかの運動が、共産主義だと誤解されてしまうのは、このような感覚があるからでしょうか?
さてさて。でも、マルクス的労働倫理はプロテスタンティズムの論理に基づいています。社会学者のピーター・アンソニーが指摘するように「労働、数量評価、合理主義、唯物論はすべて[共産主義に]存在する」*4のです。たぶんマルクス的労働倫理は、プロテスタント的労働倫理と同様に、労働に価値を置きすぎているし、人間理性を絶対視しすぎているかもしれません。ハッカーたちはホモ・ルーデンス的に遊びや「制作」に対して評価したけれど、マルクスは「労働」というレッテルをつけた、ということでしょう。
また別の違いもあります。マルクス的労働倫理は、人間はほっといても労働する。だからプロレタリアに命令を下すブルジョアがいなくなれば、皆楽しく労働できるはずだ。それに人間は理性的だから、能力に応じて労働し必要に応じて分配することも可能だ。よって私有財産は否定すべきだとしていると思います。一方、ハッカーたちは資本主義を否定しているわけではありません。
それに彼らは社会的な価値を作り出すことと仲間内での賞賛を報酬として求めています。
資本主義的ハッカーとオープンモデルなハッカー
このように書くと、冒頭で述べた「相反する2つの価値観」というところと矛盾しているように思われるかもしれません。でもハッカーたちは
個人でじゅうぶんな資本をもっているのでないかぎり、この資本主義社会で完璧に自由でいるのは、現実には非常に難しいということはちゃんとわかっている」
『リナックスの革命』p74
彼らはそもそも「金儲け」自体に反対なのではなく、「情報を囲い込むことによる」金儲けに反対しているだけなのです。
よって
ほかのだれかに雇われて働きはじめると、そのとたん自分の情熱に基づいて仕事をする自由を失い、生活のリズムを決定する権利を失い、情報をオープンに共有するという理想を自力で実現することはできなくなる。
前掲書 同頁
だから自分自身が資本家になろうと思うのも、それほど矛盾してはいない。当然と言えば当然の帰結かもしれない。従来の資本主義に一時的に参加し、株式やストックオプションを手に入れることで独立を手にする者もいれば、
情熱に基づいて行動し、自分の時間を組織化する自由をもつ
前掲書 p75
という労働倫理さえ守られていれば、ずっと資本主義に参加し続けても何ら問題ないと考える者もいます。前者の例がアップルの設立に関わったウォズニアックで、よく知られた技術系企業の多く*5は後者に属します。
しかし資本主義とハッカーリズムはやはり方向性が違うものであるという点は否めません。ビル・ゲイツのマイクロソフトがコンピュータ・ハッカーの第一の敵とされるのは、ハッカー的倫理を捨てて利益追求を至上命題にしたから、だそうです。
マイクロソフトの草創期はパーソナル・コンピュータ用のプログラミングソフトを作るというハッカー的目標がありました。でもやがてゲイツは
勤勉に働き、ひたむきであり、ベストを尽くす覚悟がないなら、ここはきみが働く場所ではない
Gates, The New York Times Syndicate.
というまでになったのです。プロテスタント的労働倫理に従うようになったということでしょう。
対して、全てではないにせよほとんどのハッカーはオープンモデルを倫理的な理想としています。このモデルにおいては、
作品は無料で他人に与えられ、自由に使ったりテストしたり手を加えたりすることが許される。
『リナックスの革命』 p83
エリック・レイモンドはオープンモデルと企業が好むクローズドモデルの違いを、論文「伽羅とバザール」で指摘しています。リナックスは社会的に完全に開かれた方法で開発されましたが、その開発方法こそが革命的に新しいのだというのです。
レイモンドの定義によると、伽羅とは一人または非常に少数の人間が前もって全てを計画し、自力でその計画を実現させるというモデルを指すらしいです。開発は閉じたドアの奥で行われ、他の人間はみな「完成した」結果だけを目にすることになります。
一方バザール・モデルではアイデアを形成する段階から万人に公開されていて、最初から第三者がそのアイデアを検討することができるようになっています。重要なのは複数の視点があるということです。初期の段階から広く公表していれば、外部からの追加や第三者の批判を受け入れてアイデアを変更することができます。
伽羅モデルでは完成した形で提示されるからその基礎部分にはもう変更がききません。
お金ではむずかしいこと
オープンモデルが実利的に優れている点はこれだけではありません。
この情報時代においては、遊びの余地を認めたり、個々人が自分のリズムに従って働けるようにするほうが、情報を生み出すうえでは効果的
前掲書 p84
なのです。報酬や競争による動機付けは、その人の関心を報酬や競争の方に向けてしまい、
仕事そのものがおろそかになって質が低くなる傾向がある。
前掲書 p209
生産性の高さという点でもオープンモデルが優れているといえるのかもしれないのです。
内田義彦もこのこととは逆側から考えています。
むつかしいことをやりとげればやりとげるほど面白い。(中略)それも、逆転して、むつかしい仕事ほど毛ぎらいするようになる。つまり労働は非効率的になり、ひきあてのお駄賃の効用と見比べながら、いやいや宿題をやるといった、経済学の前提する世界に変わってきます。作る楽しみにかわって労働の嫌悪が出てくる。
『資本論の世界』
それからフリーソフトウェアなハッカー
このような利点のあるオープンモデルですが、技術的または経済的に有利である場合にのみ選択されることが多いということです。そうでないプロジェクトではやはりクローズドモデルを選ぶようです。
でもリチャード・ストールマンはもっと先鋭的。彼はソフトウェアをすべてフリーにするべきだと主張しています。蛇足ではありますが、この場合のフリーは先述した通り「無料」ではなく「公開」を指しています。
そしてストールマンはこう問います。「情報を制限するという今の企業のやりかたは、ほんとうに倫理的批判に耐えうるのか」。
例えば、非公開情報が公開情報に依存しているという問題があります。実際、技術系企業が基礎研究に依存していることを考えれば、そこには倫理的問題があることがわかりますね。*6情報経済においては、ほとんどの研究者が公開情報に秘密を上乗せすることによってのみ、莫大な利益を得るのです。
他人が生み出した情報は頂戴しておいて、自分が生み出した情報は隠しておくというのだから、そこには倫理的に重大な問題がある。
『リナックスの革命』 p81
ネット倫理
以上のようにハッカーたちは多様だけれど、全体としてみるとラディカルでリベラルな傾向があると言えるでしょう。だからハッカーがネット上でのプライバシーや言論の自由を重視し、ネットに対する規制に反対し、互助精神を善とするということは、とても筋が通っている。
ハッカーでなくても言論の自由などを重視する人たちはたくさんいるというのに、そこのところの違いは明瞭に意識化されません。その理由はたぶん、人々の間で「サイバー空間は本質的に自由だ」という共通了解があるからだと思います。だけど、ネット倫理はインターネットのコードからくる人工的産物で、ア・プリオリに備わるものではありません。その価値観は、今のままだと急速に潰されてしまうかもしれないと思います。*7