意外と知らなかったこと-間接民主制は直接民主制の代用ではない

愚かにも『インターネットは民主主義の敵か』を読んで初めて知ったのですが、

米国憲法は本来ならば直接民主主義を理想にするものであったが、情報通信技術が現代の水準でいえば極めて原始的な段階であったために実現不可能だったので共和制に落ち着いた、という仮定は筋違い*1

らしいです。しかも著者サンスティーンは直接民主制を実現することについて「建国の理念を醜悪に歪曲したもの」とまで言い、切って捨てています。


今まで何となく、民主的というのは民意をまっすぐに反映するのが最も望ましく、そういう意味では直接民主制は理想のひとつと思い込んでいたので、結構衝撃的でした。


では、直接民主制の問題点はなんでしょうか?

建国の父たちは、大衆の情熱や偏見を極端に恐れていた。政府が大衆の欲望をそのまま法律にしないように願ったわけだ。実際、建国の父たちはフィルタリングに理解を示した。(中略)大衆の欲望を「フィルタリング」する制度をつくろうとした。そうすれば、公共の利益を促進する政策が確約される。こうして代議制やチェックとバランスというシステムが、国民と法律の間のフィルターになるように考案された。*2

エリート主義的だし建国時代を神聖視しすぎだ、と言ってしまえばそれまでなのですが、しかし提示された恐怖感は「祭り」や「荒らし」の勢いを見ていると頷けてしまうところもあります。
そして、もし「大衆の情熱や偏見」を恐れるとするならば、「討議型民主主義(deliberative democracy)」が選択されるというのもわかります。

討議といっても、その参加者は非常に多様で、大小にかかわらずさまざまな問題に対して意見が異なる人たちであった。討議を通じて「社会全体が恩恵を受けるような法令」が実際に成立することになっていた。もちろん憲法の草案者はナイーブではなかった。ときには、ある地域やある特定のグループがメリットを受け、それ以外は得るものがないこともある。昔も今も大事なことは、結果としての勝ち負けのパターンが、ある根拠に根ざすものでなければならないことだ。

直接民主制の問題点。それは端的に言うとノリと勢いで多数の意見が通ってしまうということでしょう。それはまるで「都合のいいように集められた一部の意見をスナップ写真のように見せること」*3のようです。断片的で偏っているかもしれない情報をもとに、瞬間を切り取るように判断しているからです。


でも私たちは政治のことだけを考えて生活しているわけではありませんし、すべての分野や地域情報に精通するというのも時間の有限性を考えると難しい。当たり前のことですね。
だから、共和制だとコストをあえて一部の人に偏らせているわけです。でもそれよりも、コストをどのように払うかによって結果に大きな違いが生じるからこのような選択をしたのでしょう。
しかしこの情報収集と共有それから討議にかかるコストは、情報技術革新により大幅に低下しました。チープ革命です。*4


さて「大衆の情熱や偏見」を恐れて討議型民主主義を選択したはずですが、そのシステムを支える前提条件には、狭い意味での私利を追求せず、他者に関心を持ち、他人の判断から自身を隔離しないという高邁な市民像が存在しています。
今までそれは「高貴なる者の責務(noblesse oblige)」に見られるように、自尊心を満たす機構と表裏一体で行われていました。高い地位に見合うよう振る舞いが矯正されていたのです。


情報技術の進歩によりコストが低下して直接民主制は可能になりましたが、それをうまくまわす機構すなわち「高貴なる者の責務」に代わる機能がない限り、集団行為問題は解決しません。*5
常に聖人君子でいるのはとてもしんどいです。でも常にけだもののように暮らしているだけなのも飽きてしまいませんか?もしそうなら、一時だけ人間になってもらいたいと思います。

*1:インターネットは民主主義の敵か』 p56 強調は筆者による。

*2:前掲書 p55

*3:前掲書 p56

*4:ごめんなさい。流行言葉が使ってみたかっただけ・・・。

*5:自発的に「高貴なる者の責務」を負ってる奇特な方もいらっしゃいますが。