「Wikipedia神話」はなぜ神話たりえたのか?

The death of WikipediaそれからNow, let's bury the mythに関連して。*1


id:cedさんから

公開性(openness)があったかどうかなんて問題の大きさからすれば氷山の一角でしかない。Wikipedia集合知、或いはより一般的な言葉で言えば群集の知恵(wisdom of the crowd)の実現である、という壮大な神話がある。


雑記帳:[MEMO]Wikipediaの理想と現実
http://d.hatena.ne.jp/ced/20060530/1148984619

と指摘があったわけですが、同じエントリーの所感にて

ここで「Wikipediaは全然オープンじゃなかったじゃないか!」と叩いてもあまり意味はないと私は思う。何しろ私を含め、大半の人は「the free encyclopedia that anyone can edit(誰でも編集可能なフリー(自由/無料)な百科事典)」という言葉を信じていたのだから。それに、ここに書かれていることが事実だとしても、だからといってWikipediaの価値が無くなってしまうわけでももちろんない。

とあります。この立場はとても同意できて、Wikipediaに対してどうして「オープンな百科事典」「誰でも参加」「集合知の実例」というイメージを、一部の人が持ってしまったのかは考察に値すると思います。

なぜなら、編集合戦あるいは特定の情報(とある芸能人の身長とか)がすぐさま削除されてしまうという現象の発生を考えると、上位意思の介在がないと一定水準を維持できないだろうと推察できるからです。*2それはある意味当然のことで、取り立てて騒ぐ必要はありません。
繰り返しになりますが、どうして「Wikipedia神話」が神話であったことが騒がれるのか、が問題なのです。


はてブのコメントを読むと、道具に過度な期待は寄せないドライな意見が多いけれど、でも騙されたって思うナイーブな人も確かにいます。
cedさんが

これが「理想的なWikipedia」の在り方だろうし、また「そうであって欲しい」という願望が自分にあったことも否めない。

必要なのは、何故ここまで皆がこの神話を信じることになってしまったか、その過程を明らかにしていくことなのではないか。皆がこの神話を信じてしまったのは「Wikipedia集合知を体現するものであって欲しい、という願望」があったからなのではないか。

と述べているように、おそらくこの「神話」を信じた人たちは、信じたかったから信じたのでしょう。その根源にあるのは、端的に言えば「人間理性に対する信頼」になるのでしょうか。なんだかとってもモダンな感じですよね。

そして管理していたWikipediaもまたとてもモダンです。秩序を指向し、合理と論理と実証を重んじ、個人と平等それに民主性を大切にしているからです。*3

Wikipedia神話」を信じていた人たちも運営者も、実は根が同じものであり、両者の違いは理想的か現実的か、くらいのものでしかないと思います。

何かひとつの方向を決めて、それに向かって合理的な努力をするというのがモダンな在り方だとするならば、今の情報技術を動かしているのは紛れもなくモダンな論理であり努力といえるでしょう。*4

何だかここにモダンであるための条件を感じるのだけど、それはまたの別の機会に。

とcedさんも述べてますが、メッセで「モダン vs. ポストモダン という枠組みとは別のものがあると思う」とも仰っていたので、今後の展開に大変期待です。

*1:Carrについてはyomoyomoさんが紹介していたRossの批判が当を得ています。詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/yomoyomo/20060529の追記をご覧下さい。

*2:そう思って最初はITmedia「wikiは時間のムダだ」はさほど衝撃もなく読んでいました。

*3:裏を返せば非合理性と不確実性、一回性を排除しようとしていることになりますが。あれ?でもそういう意味では、wikiはそのへんのファジィーさを許容しているというか、淘汰を前提に設計されていますよね。それにオブジェクティブな「もの」ではなく「こと」ですし。つまりモダンよりも流動性がやや上がっていて、手間をかけずに融通の利いているということでしょうか?それとも普遍性への懐疑?このへんにヒントがないでしょうかね? 【追記】ないって言われた・・・。うーん。さてどうしよう。

*4:ポストモダンはモダンになれないひとのルサンチマンだ、という意見もありましたね。