「考える葦」を補助線に

パスカルの『パンセ (中公文庫)』は断章の集まりです。その断章をふたつに類別すると、人間観察から人間の悲惨さ*1を導出する断章とキリスト教に人間の偉大さ*2を見出す断章に大別できます。
そしてその中間に置かれるはずだったと考えられるのが有名な「考える葦」に関する断章です。

L' homme n'est gu'un rosean, le plus faible de la nature, mais c'est un roseau pensant.


人間はひと茎の葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。(347)*3


大橋良介は著作「『考える葦』の場合」のなかで、なぜ「考える葦」は葦でならなければならなかったのかと疑問を呈した上で、次のような考察を述べています。

ときどきいわれるのは、彼が新約聖書の次の言葉を念頭においたという解釈である。すなわち、イエスが群集に向かって、「汝らは何を見ようとして外に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか」と。イエスは、群集がバプテスマのヨハネを知らずに、ただ風に揺らぐ葦を見ていることをたしなめている。ここで言われる葦は、野に生えているとるに足らぬもの、という意味である。そういう葦に比べて、バプテスマのヨハネは、「女の産んだ者の中で彼よりも大きい人物は出てこなかった」とされる人物である。そういうヨハネは、風にそよぐ葦にくらべると、なんと大きな存在であることか。しかしイエスは、「天国で最も小さい者も彼よりは大きい」とつけ加えた。そうだとすると、逆に、一本の葦はますます小さな、とるに足らない存在ということになる。*4

つまり、「考える葦」の前文にある

無限の中において、人間とはいったいなんなのであろう(347)

という感慨が再び込められているのです。でも、太陽系を包む広大無辺の宇宙と蚤のなかの素粒子的な宇宙の喩えを用いて、物理的な時空の無限大と無限小を提示してみせた前段とは違い、今回はより精神的な大小を示しているということになります。


さて、次の断章を読み進めると

空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ(348)

という文が含まれています。「つつむ」の原語comprendreは、「つつむ」という意味の他に「理解する」という意味をももっています。このことに関して大橋は、

一本の葦が全宇宙を包む(comprendre)とともに理解する(comprendre)―ここに、「考える葦」の巧みな比喩性がある。同時に、ここには、「考える」という働きについての重大な示唆も与えられている。そもそも何かを考えるということは、(中略)、小さな働きの中に自分の生きる社会や文化を映し、自分自身の性格や運命を映し、内と外との世界を映し、もしくは包んでいることだと言える。平均的にはたかだか七十年とか九十年とかの歳月しか存在しない、小さくて弱いわれわれ人間が、考えるという働きの所産として、膨張していく大宇宙の果てを電波望遠鏡でとらえることもできる。またわれわれの内面に沈潜して、深く永遠に触れることもできる。思惟を通して、われわれの存在は内面的にも外面的にも、われわれを超えた世界あるいは宇宙と通じる。われわれの思惟そのものが単なる個人的主観の意識作用ではなくて、この宇宙の働きのひとつひとつの表現点であるともいえる。このとき思惟はその一々の働きにおいて宇宙を包んでいるともいえる。

と解釈しています。
compredreの持つ二重の意味を利用して、本質を短い言葉で捉えた素晴らしい文章表現と考えられます。この断章では、パスカルが再び人間観察と思惟に視線を向けているかのように思えます。でも表現が巧いだけではありません。
ここでもう一度、”c’ est un roseau pansant”に立ち返って考えてみます。大橋が指摘していますが、実は、葦はそれほど弱い植物ではないのです。葦は水辺に群生して2メートルの高さにまで達する繁殖力の高い生物です。でも「一本の」葦ならば事情は違ってきます。このことに関して大橋は独自の見解を示しており、

私には、「一本の葦」が考えるのではなくて、「考える葦」がそれぞれ一本になる、というふうに思われる。どちらも似たような表現であるが、意味は違う。一体、人が何かを考えるというとき、彼はどのような状態にあるだろうか。考えるということは、どこまでも自分一人にもどって、自分の内面で考えるということである。(略)考えるということは、一方で、群生することを必要とする人間が、自分の内面にもどって、死すべき者としての絶対の有限性に直面することである。しかし他方でこの内面は、他の人間と共有する最も基本的で深い根にとどく。一本の葦は枝葉によって他と交わるときは、本当は交わってはいないのである。むしろ孤独な一本の存在にもどることによって、一本に葦はかえってその根もとで他との共同存在の根ないし根拠を獲得する。そういう根拠として、人間の思惟は人間存在の本質をなすともいえる。

としています。これはパスカル

私が私の尊厳を求めなくてはならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。(384)

という文とも一致しています。すなわち、人間が物事を考えているときには、必然的に内面で一人にならなくてはならず、死や有限と向き合わなくてはならないのです。しかしそれと同時に、他の死すべき存在すべてと結びつくことができます。
人間が尊いのは

彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない(387)

という点にあるのです。パスカルは、人間存在の本質を思惟とし、そこで人間の尊厳を見出すわけです。


ここで、人間が思惟のなかで死と向き合わない場合を考えてみましょう。それでも、人間は世界をつつむことはできます。なぜなら、「私」という世界を認識できる者がいなければ世界は認識されず、認識されない世界は理論上存在しないに等しい、という論理が成立し、さらに世界は「私」の認識のなかにしか存在しない、とも言えるからです。
でも、世界をつつむことはできたとしても、人間の尊厳は立ち上がってきません。無限小と無限大の時間、無限小と無限大の空間で漂う「私」が卑小な存在であることに変わりはなく、葦は一本で弱いままなのです。世界すべてを他者と見なす思考では、人間の尊厳を獲得できません。


しかし深い思惟のなかで死を意識したときは、人間の尊厳が生じます。全ての者に訪れる死を意識することで、人間は宇宙にはないものを得るのです。宇宙は自分の終わりを知らないが、人間は知っている。ゆえに、人間は宇宙より優位となれるわけです。
論法は先ほど仮定した世界把握の話に似ていますが、死を意識することは単なる世界把握たる認識とは違うのです。それは共同存在としての隣人を獲得するからです。つまり、物質そして精神(思惟)とは違うレイヤーを導入することによって、人間は存在の根拠となる確かなものを獲得できます。*5


でも、私たちは死を日常的に意識していません。

気をまぎらわすこと。*6
人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。(168)

さらに、考えないからといって必ずしも幸福になれるというわけでもないのです。

われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたないわけである。(172)

パスカルはこれを人間の悲惨さだとして、そこから抜け出すために前述のような思考をしました。でも、もっと別のアプローチも可能です。

人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果をよく眺めてみるだけでいい。原因は、「私にはわからない何か」(コルネイユ)であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。
クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう。(162)

以上のようにパスカルは不確定要素に対して否定的です。しかしコルネイユを肯定してうまく付き合っていくことで、人間尊厳なんて大上段に構えなくても、人はむなしさから解放されます。それはつまりアクシデントを受け入れて日々を大切に過ごすという、至極単純なことなのです。

*1:misere

*2:grandeun

*3:引用文後の括弧内の数字は、ブラウンシュビック版による断章番号

*4:「『考える葦』の場合」 大橋良介著 『世界思想』 1991 春号

*5:パスカルはおそらく、これを信仰だと考えたのだと思います。信仰の必要性は人間尊厳の獲得にあり、正当性は思惟によって担保されているということです。ちょっと賛同しかねますが・・・。

*6:divertissement