ハッカーとお金

mixiはてなを取材した「カンブリア宮殿」を見たとき思ったことを今さら書いてみます。*1


近藤社長が「お金はごはんのようなもの。無ければ死ぬけど、いっぱいあっても全部食べることはできない」と言っていたのが番組中でかなり注目され取り上げられていました。これは以前のエントリーで書いたハッカー倫理をよく表した言葉です。むしろあえてカジュアルな格好で出演しているあたり、彼がハッカー気質(の良い面だけ)を体現しようとしているのではないかとさえ思います。


ではハッカーはどうしてお金にそれほど執着しないものとされているのでしょうか。白田先生は「グリゴリの捕縛」において以下のように指摘しています。

貨幣がたんなる「信号」に過ぎないことに気がついてるハッカーたちは、貨幣の価値を低く見ています。彼らは金銭だけでは動かないのです。彼らは、自分たちが必要とするものを生み出す (この点では市場経済以前の自給生活のエートスに近いものがあります)ことに加えて、これを社会に公開・通有することで、コミュニティからの「尊敬・賞賛」を得ることを最大の価値としています。


白田秀彰「グリゴリの捕縛」
http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/kenporon.htm

貨幣が信号であるということの前提として

たくさん真面目に働いて、たくさん蓄財した人というのは、社会に貢献した立派な人であるという社会的認識ができ上がったのです。やがて、労働を神の召命であるとするプロテスタンティズムは、だんだんと意識されなくなりまして、現在の労働は、賃金を稼ぎ市場経済に参加するための手段であると認識されているように思われます。社会のもっとも重要なシステムに参加するための必要条件として、労働は位置づけられているのです。

ということがあげられています。
つまりお金/賃金には個人に対する社会的評価という意味も多分に含まれているのです。年収が1000万円の人と300万円の人、あるいは無職の人と就労している人を比べたときに持つ感想を想起してみてください。*2


そういうわけで、ハッカーたちはお金と社会的評価を切り離して考えています。これはおそらく、プログラミングの良し悪しは動かしてみれば、あるいはソースコードを読めば、はっきりとわかるということと大きく関係しているでしょう。
お金よりももっと直截に能力が歴然と分かるなら、もちろんそちらの方を基準にします。こうしてお金から社会的評価の一部「尊敬」「賞賛」が剥がれ落ちます。さらに言えば、評価してもらうにはソースコードなどの開示が必要ですから、必然的に「社会への参加」という事項も満たします。


ハッカーソースコードを公開する理由はいろいろとあると思います。それは集合知による質の向上を狙っていたりであるとか、あるいは自分の需要を満たすという目的を果した後に「おまけ」のようなかたちで公開するとか。*3そのなかでも理解者から「尊敬」や「賞賛」を受けたい、あるいは自分の作ったものに何かの評価をもらいたいという欲求は重要な要素であると思います。

合理に美しさを見出す人たちにおいては少し不思議で一見矛盾した動機ですが、そう思ってしまうのは私がハッカーではないためでしょうか。

*1:ところで本論とは関係ありませんが、女子大生ではてなを知ってる人は稀です。mixiについてはかなりの知名度で、大学のPCroomの画面は結構な割合でmixiorengeが表示されていたりしますが。よって両社を知らない若者はいないというのは、ちょっと度が過ぎる誇張です。

*2:南方司さんが指摘していたように「能力に差があるから収入に差がある」―「収入に差があるから能力に差があるに違いない」という考えは循環論法です。

*3:複製のコストが低いため、公開・通有は自らの利益を減じるものではありません。