夜と霧と自由

夜と霧 新版

夜と霧 新版

夜と霧 新版』はヴィクトール・フランクルが書いた本で、世界各国でベストセラーとなりました。多くの人々にこの本が読まれたのは、サブタイトル「ドイツ強制収容所の体験記録」が示す戦時中の過酷な体験談、極限状態の記録がとても興味深いということもありますが、フランクルが心理学者として考察したこと、哲学的に思索したことなどをふんだんに盛り込んであるためだと思います。


そこでここではフランクルが第7章で提示した問い、つまり

自然主義や世界観や人生観が、人間は生物学的であれ、心理学的であれ、社会学的であれ、多様な規定性や条件の産物に信じさせようとすることは真実なのであろうか?人間は従ってその身体的体質、その性格的素質及びその社会的状況の偶然な結果に外ならないのだろうか?

に挑戦したいと思います。もっともこの問いを投げかけた直後にフランクル

強制収容所を経験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通ってゆく人間の姿を知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ―――彼等は、人が強制収容所の人間から一切をとり得るかも知れないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由を、とることはできないということの証明力をもっているのである。「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、収容所の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。

と結論付けているのですが。


しかし私は疑い深いので、この極限状態での「自己決定の自由」もキリスト教に影響された価値観なのではないかとか、「人間は自由な存在にすぎない」という還元主義なのではないのかとか、フランクルは『意味への意志』で還元主義を乗り越えるために次元的存在論を提示しているけれど、それも「人間は一言で表すことなどできない」という一種の還元主義なのではないかとか考えてしまいます。


フランクルが第7章で提示した問いを一文で表すのなら「私たちは本当に自由に自己決定を行えるのだろうか?」ということになります。この問いは「自分とはどこまでが自分か?」というさらなる問いを必要とします。なぜなら「自己決定」はもちろん自分で自分のことを決めるということで、自分の範囲を定めないと前提があやふやになってしまうからです。


では「自分」とはなんでしょうか。
これは最も根源的な哲学の問いのひとつで、いまでも多くの哲学者たちが取り組んでいます。不確定だとしか言えませんが、フランクルの問いから推察するに、彼は「自分」を決断の主体として捉え、「自然主義や世界観や人生観」としての人を想定しているようです。
でも「自然主義や世界観や人生観」は自分以外の誰かが作り上げたものだと言えます。他者が作り上げたものを学ぶことで獲得したのだと考えることもできますし、言葉のうえでは同じ価値観のようにみえるかもしれないけれど本当の「価値観」は違っているのだと言うこともできそうです。このあたりも不確定です。
さらにもし仮に「自分」や「私」という概念が定義できたとしても「私たち」とひとくくりにできるかどうかという問題が発生します。「私」についてあてはまることを「私たち」にあてはまることとして外延することは可能なのでしょうか。そして「私たち」はなにを指しているのでしょうか…。


しかしこれ以上問いを続けてもスタートラインより後退するばかりで埒があきません。別のアプローチをしてみましょう。


私は先ほど「人間は自由な存在にすぎない」と述べました。しかし自分で言うのもおかしいですが、この一文は成り立つのでしょうか?
還元主義は「みかけはどんなに複雑であっても、基本の部分ではたらいている要素は単純だ」という考え方です。つまりこの一文は一応成り立つということです。*1


デカルトは「客観世界の現象を、より基本の物質の性質や運動によって説明すること」だと言いました。そしてこれが科学の基本方針です。物質を分子や原子で説明するように、もっと基本的なものは何かと追求してきたのです。科学者たちは宇宙を一行の数式で表そうと努力しました。しかし科学が進歩してくると還元主義で世界がおさまりきらないということがわかったのです。
例えば天気のように水、光、空気の複雑な関係で起きる現象などは、非線形現象として「集団系」になってはじめて起こる現象です。また原子のそのまた中にある中性子や陽子は必ずしも安定ではなく、量子の動きは単一ではありませんでした。還元主義を徹底的に追求することによって、「どうやら根っこのところは単純でないらしい」ということがわかってきたのです。
以上のことはフランクルの見解と正反対です。フランクルは、あらゆる形態の還元主義思想は自己決定の自由を否定することになり、その帰結として虚無主義が生じると考え、それに対抗しようとしたのです。


虚無主義は「人間存在の虚しさを説き、信じられる真理や価値はなく、何も信じない」態度であり、あらゆる真理、価値、道徳、実在を否定してそれらへの人間努力に対しても懐疑的な態度です。あるいはニーチェのいうところの「能動的ニヒリズム」というものもあります。
前者がすべての秩序を否定していながらその中で生きるのに対し、後者は自分の信じない秩序を、半ば無意識のうちに、脱したりすり替えたりひっくり返すことによって別の秩序に移ることと理解すればよいでしょう。


還元主義的科学者たちは還元主義を信じ続けることにより、フランクルの対抗した虚無主義には陥りませんでした。そしてフランクルが提唱した「次元的存在論」に近いところに達したのです。
次元的存在論においては、人間は多様であるにも関わらず統一されている存在と理解されています。人間を構成する「身体的なもの」「心理的なもの」「精神的なもの」の間には質的な違いがあるものの、同時に統一があり、部分に分解することは不可能とする考えは、身体論に通じています。
人間の内面と外面、精神生活と物質生活、社会の上部構造と下部構造といっても、その区別そのものが曖昧であり、中間に大きな灰色の分野が広がっています。つまり人間の物質(肉体)と精神の両面にまたがる身体というものがあると認識するのが身体論です。


その身体にしみ込んで個人の内面と外面をつなぐのが気分です。*2
もちろん、気分は身体の物質生活に直接支配されていますが、反面、精神の側からの強い作用を受け、それを逆に身体に伝達する働きを持っています。人間のものの考え方は気分によって左右されますが、同時に身体が気分に動かされることもあります。また、それは個人の内面と外の社会とをつなぎ、両者を媒介としながら緩衝材として働きます。
気分は、社会の制度や規則と違って、個人の心を固く縛ることはありませんが、個人はあくまでもそれにつつまれて、その影響のなかでのみ自由に考えることができるのです。


つまり、外部から完全に自由というわけではありません。そもそも外部と内部、自己と社会を分けようとする方が無理なのです。しかしその関係性のなかで、人は気分や身体といった中間地帯においてある程度自由に自己決定ができるのです。

*1:でも真偽は不明

*2:この気分は宗教意識とも深いかかわりがあります。精神は倫理性がありますが、気分はそれを超越しています。精神は思慮分別という意識を基礎としていますが、気分は悟性です。気分の直覚力は精神より高次元であるとも言えます。