ICCシンポジウム第1回の私的なまとめ(1)
ICC renewal opening symposium「ネットワーク社会の文化と創造」第1回の「ネットワーク社会の文化と創造─開かれたコミュニケーションのために」に行ってきました。
情報ネットワークの時代において,芸術文化や科学技術を取り巻く社会・経済・環境システムは変化し続けています.インターネットにはじまりモバイル,ユビキタスへとつながる発展は,時間・空間的な位相を変容させながら,コミュニケーションについて根本的に再考する機会を提供しています.このシンポジウムでは,ICCが活動を開始した一五年前と現在とを比較しつつ,「コミュニケーション」をキーワードに,広く社会と切り結ぶ芸術と科学との新たな関係について包括的に議論していただきます.
斎藤環(精神科医/爽風会佐々木病院精神科診療部長)
藤幡正樹(メディア・アーティスト/東京芸術大学大学院映像研究科教授)
宮台真司(社会システム論/首都大学東京社会科学研究科准教授)
司会:浅田彰(経済学,思想史/京都大学経済研究所助教授)
icc online
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2006/OpeningSymposium/symposium01_j.html
まずは浅田先生から、体系的に内容は決めていない旨が告げられ、ICCの歴史的経緯などの紹介がありました。ICCはNTTが1990年に電話事業100年記念で設立した文化施設で、今でいうところのメディアアート(+ネットワーク)です。1997年から始まったそうですが、企画時から世の中のあり方は大きく変わったとのこと。今回は原点に立ち返って再出発という意味も込めて、アートのおかれる場所(大きな視野から)を問いたいとして、「そもそもmedia artは可能か?」という問題提起などがされました。
その後宮台先生、斉藤先生、藤幡先生の順にプレゼンテーションが行われました。
「スマート化するテクノロジーが開くGood Feel Societyとデモクラシー」(宮台真司)
宮台先生は意識しにくいネットワークやアーキテクチャの実現を政治社会学的視点から考察していました。
Good Feel Societyとは、端的に言えばディズニーランド的なソーシャル・デザインで、インフラを地下に埋め込むように負荷を不可視化しています。つまり意識せざるシステムを利用することによって脱スイッチ化、シームレス化し(システム側から見ると人々をインテリジェント化することによって)、人々が快適さを求めるベクトルと人々を社会的に振舞わせるベクトルを一致させることができるのです。これが「テクノロジーのスマート化」です。
スマート化は人々を主体化・内面化*1させるために行われていますが、かつてそれはシステムでなく生活世界によって担われていました。つまり生活世界からシステムへ移行したのです。
よって次のような変化が起きました。善意と自発性優位からマニュアル優位へ。 匿名性から記名性へ。人格的信頼(履歴に対する参照)からシステム信頼へ。入れ替え不可能性から入れ替え可能性へ。低流動性から高流動性へ・・・。*2
こうしてGood Feel Socetyが実装されていきます。むき出しの暴力が見えない社会となって、アーキテクチャ化するわけです。
別の文脈から言えば、ブッシュ政権のような頭の悪いネオコンは社会統制によって制御しようとしますが、頭の良いネオコンであるヒラリー・クリントンは社会統制ではなく社会化*3によって、人々が自己決定的に振舞った結果従う制御方式をとります。
では現状はと言うと、「国家を草刈場とする多様なエージェントの権益追及合戦」となっています。
それは盗聴法の問題が国家=悪では切捨てられないであるとか、またETCの普及がSmart化的便宜を利用しているとかいった点からも観察されます。すなわち国民の便益を利用した国家の便益の増大が図られているのです。もちろんそこには誤用・乱用可能性と、チェック可能性の問題が出てきます。フィージビリティのチェックが不完全なのです。
そして最大の問題点は全体性を把握している人がいない点にあります。民間企業も政治家も官僚も、生き残りをかけて各々の利にかなうアーキテクチャを入れようとしていますが、競争関係にあるが故に、誰一人として全部を見わたせないということです。マンハイムが指摘した官僚行政国家と全体性の問題が立ち現れてきます。
それはむしろ人の自律と言うよりシステムの自律のように見えます。フォルクソノミーではなく、自律したシステム下で人はあくまでシステムの結節点でしかないということらしいです。
こうした現状の背景には、「米国文化と建築家的権力」が存在します。
格差社会論における差異について、宮台先生は、格差が問題とされるのは日本特有であると指摘した上で、米国は流動性重視から、欧州は社会の安定性重視から格差を肯定しているとなさっています。そしてその際、不完全な民主制を補完するものとして、欧州の場合は連帯(主張を補完するためのベースとなるもの)やnoble obiligationsがあり、米国では宗教的善性や良心がある、としています。それぞれの拠りどころとなるのが、都市国家/自治国家の伝統(欧州)と結社の伝統/ASSOCIATION(米国)です。
しかし日本においては双方の伝統が空白である、と宮台先生は指摘していました。よって欧州のように生活世界の保全という選択肢は取れないし。*4、米国のように「システム」の拡充も辛いという状況に陥っているのです。
そこで、処方箋として提示されたのが「再帰性の徹底」です。*5
日本は、生活世界保全もシステム拡充も選択しにくいなかで、モダン的再帰性(保全)ではなくポストモダン的再帰性(構築)を選択しました。仮に生活世界が再現されたとしても、それはGood Feel Societyの一亜種にすぎません。それは再帰的な操縦でしかありえないのです。*6
そしてその真相を人は知りたがらない。せっかくアーキテクチャが隠蔽してくれて、ディズニーランドにいるときのようにまったりと過ごしているのに、真相を知ったらまったりできないからです。動物化ですね。これはデモクラシーの危機です。
そのため、全体性にアクセスできるエリーティズムの必要性が出てくる、と宮台先生が主張します。*7立ち居地の複数性を持った視座の輻輳に耐える存在「新しい知識人」が要請されているのです。*8
以上が宮台先生のプレゼンでした。
各先生のコメントと応答
【浅田彰】
まず浅田先生が、この議論はフーコーの権力パターンと一致していると指摘してました。近代ではディシプリンによって主体化していったわけです。規範からコントロールへ、ハードアーキテクチャからソフトアーキテクチャへということです。そうまとめた後で、疑問を投げかけます。「主体の無いアートはないのか?」そして「家族ゲームのように『敢えておこなうゲーム』が必要なのか?」*9
またGiddensは第二のモダニティと論じていますが、「敢えて」は主体能力がかなり必要、という批判があると言います。この点についても浅田先生は問いを立てていました。
【齋藤環】
斎藤先生からは「ネットワークの拡充で人の心は変わるのだろうか?」という投げかけがありました。自動的に保全されていくであるとか、移り変わらないであるとか、残っていく部分はあるのではないかという疑問です。
斎藤先生自身は、後述するように、おたくとして生きて症状を受容することで、無限の再帰性に歯止めをかけられるのではないかとの提案をなさってました。*10
【藤幡正樹】
藤幡先生から、日本ではアーティストが生き難いという話が出ました。
ヨーロッパではアーティストは再帰性を守るため、再帰性の担保のためだけに使われていると述べ、そのことを「目撃者を飼っておく」と表現されていました。日常の不思議性が見えないので、アーティストは目撃者の役割があるというのです。
以下、ICCシンポジウム第1回の私的なまとめ(2)へ続くと思います、たぶん。
【追記】 続きはhttp://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20060611です。よろしければ合わせてご通読ください。