ICCシンポジウム第1回の私的なまとめ(2)

昨日のエントリに引き続き、私的なまとめをしていきます。なおご承知のこととは思いますが、このまとめは私がシンポジウムを聞きながら取ったメモなどを元に作成したものです。よって発言者の発言や意図を必ずしも正確に反映しているわけではありません。
また、id:cedさんが提供してくれたメモやid:sakstyleさんのエントリメモを参照させていただきました。ありがとうございます。

ネットワークと心的環境(斎藤環

宮台先生の後は斎藤先生が「ネットワークと心的環境」というテーマでプレゼンテーションをなさいました。


斎藤先生は「メディアは存在しない」という連載をICCで持っていて、implosionという楽観主義のもとに、メディア論に対抗しようとなさったそうです。ともすればオカルト的なものとして召還されやすい「人を変えてしまうメディア」という見方に異議申し立てを行ったのです。斎藤先生によれば、人間を根本から変えてしまうようなメディアやシステムはないということです。


メディアの階層構造は人の神経系の階層構造と親和性が高いともおっしゃってました。メディアによって神経が全宇宙的に拡大していくイメージです。
でも人の心は階層構造になっていません。それは脳と心は一対一対応していないということでもあり、心とメディアの親和性が高くないということでもあります。よって統合失調症などの神経系の病が激増しているというわけではありません。しかし心因性のものはネットワークの影響が大きいそうです。


ここで斎藤先生は1977年に撮影されたドキュメンタリーを提示していました。NHK特集「思春期病棟」です。
それを観た上で、30年前から引きこもりや不登校はあり、浅い葛藤で深刻な問題行為を起こす症状は発生していたし、昨今騒がれている若者の非社会的傾向は30年位前から始まっているという解説がなされました。非社会化は、おたく、不登校、フリーター、ひきこもり、パラサイトシングル、ニートといったbuzzwordsにも見受けられます。非社会的傾向ははっきりと言えるそうですが、でも病理としての変化はないそうです。


しかし病理がシステマティックになって再帰性によって強化され、形象化が進んでいるというのも事実です。斎藤先生はひきこもりの図解を通して病理のシステム化を提示していました。それによればひきこもりは、個人・社会・家族が完全分離化していて、症状の再帰的強化・増大が起きているらしいです。
また、患者が自分で自分の症状を解説していることが多いと言い、問題意識が自覚化されるほど治らないとも仰ってました。自己言及の流行により社会学や心理学が自分語りのツールとして利用されだすと、問題が言語化されて再帰性はさらに強化されてしまうそうです。フロイトの想定では、病理が意識化できれば少なくとも軽減されるはずだったのに、逆に問題意識が高まるほど悪化してしまうのです。これが「社会の心理学化」です。
そして勝ち組/負け組、モテ/非モテなど自分に対するラベリングは二極化が進行しています。ネガティブな方で再帰的に循環しだしているそうです。


また、解離的文化の進行も指摘していました。それは例えば携帯でコミュニケーションするように、他の友達が側にいても透明な壁を作って別の友達とつながることができるというようなイメージです。解離的文化の進行はメディアの発達とあいまっていて、メディアとムーブメントどちらが先か分からないが、増えているということです。


さて、そうしたなかで人は2タイプに分類されると言います。「ひきこもり系」と「自分探し系」です。ひきこもり系は、コミュニカティブでないと自己イメージを固定する人たちのことで、不適応になるとひきこもりになってしまいます。対して、自分探し系はコミュニカティブです。しかしそうであるために自己イメージが不安定で、不適応になると境界例になってしまいます。
どちらもネットワーク化のもたらす病理です。再帰性・嗜好化が指摘されていましたし、コミュニケーションの過剰もまたそうですね。


存在の不確実性によって「自分探し系」はカルトに走り、*1自傷・身体操作による存在確認によって存在のトラウマ化が発生します。*2ネット依存や摂食障害も同様で、内省の過剰が社会性の回避につながっていくわけです。*3


メディアの影響を考察すると、北田暁大が指摘していたようなロマン主義シニシズムであるとか、鈴木謙介が指摘したカーニヴァリズム化や体験のテンプレート化*4があります。そうしたうえで、再帰性サイクルの停止を目的とするオタク文化の可能性を斎藤先生は信じたいのだと仰ってました。



以上が斎藤先生のプレゼンでした。

各先生のコメントと応答

宮台真司
まずは宮台先生からオタク化を肯定するのはエリーティズムの創出ではないか、という提起がなされました。主体への過剰な負荷に多くの人は耐えられず、再帰性に耐えられる少数者のみがプラットフォームを選択をしていく。それは多数の人の症状化を肯定して再帰性を止めることではあるけれど、同時に「おまえら、オタクやっとれ」というエリート環のジャッジなのではないかという指摘です。そして近代の本義すなわち参加を選択することに反してしまって、それは民主主義の危機なのではないかという危惧でもあります。
この点においてハーバーマスの晩期近代(latemodern)における正当性の問題が出てきます。「プラットフォームを作るエリートと、それに乗っかってまったりする人たちとの区別の正当性はどこにあるのか?」という問題です。
さらにエリーティズムを推進するとしたら、プラットフォームをつくるエリートをどう区別するのか、という問題もあります。言い換えると「誰がその決断を下すのか?」ということです。レッシグ先生はプラットフォームへのアクセスビリティまたはコネクタビリティを確保しておけば良いと述べていますが、宮台先生はその見解に否定的です。それは誰かがアクセスするということが現にあることが必要で、実際にはあまり起きないのではないか、という前提が宮台先生のなかにあるからです。開いていても閉じていても大差ないのではないか、と述べていました。


斎藤環
宮台先生の問いに対して斎藤先生は、強い再帰性を生きている人すなわち制度的エリートというわけではないと応答していました。またその逆も真であり、制度的エリートは再帰性を生きていないとも述べていました。エリートのイメージが解離しているということだそうです。


宮台真司
それに対して宮台先生は、確かに解離は存在するとした上で、プラットフォームを選択して支える人たちは必要であると再度仰いました。そしてその問題は現段階では未解決であるとして「誰が」「何によって」「どのように正当化するか?」が課題であると示しました。


藤幡正樹
さて、藤幡先生は経済中心の資本主義には成長幻想があるとして、リニューアルし続けることへの懐疑を示しました。また「知性」という言葉にも懐疑を抱いていると仰っていました。元々あるシステムから召還された概念だということです。
また「文化」が「文字が化ける」と書くことからリテライズを含意していて、"culture"は「耕す」という意味から「白痴」がやることであるとしていました。*5よって、アーティストは欧州では希少価値があるけれど、日本だと居場所がないと言い、苦しさを表明していました。
そしてアーティストは「白痴」であり、すなわち目撃者であるとした上で、日本ではこの役割をお笑いが担っていると指摘していました。デモクラティックな部分を解放し、ガス抜きとして機能するわけです。
そして日本では「白痴」として見出してもらえないために、自分でラベリングしてしまうそうです。そして自分でオタクだとラベリングした希少性のあるオタク同士がネットワークを通じて繋がれるという点に、藤幡先生は改めて感嘆していました。
また藤幡先生は斎藤先生に対して、欧州や米国でもひきこもりがあるのかと問いました。


斎藤環
藤幡先生の問いに対して斎藤先生は、欧州や米国の状況は詳しくはわからないとしながらも、元は翻訳されて輸入された言葉であった「ひきこもり」が"hikikomori"として紹介されていると言いました。
そしてひきこもりは正常であるために仮借ない判断を自分にも下してしまって、自分で自分を追いつめてしまうのだとも仰っていました。


宮台真司
話はアートに移って宮台先生は、サンプリング・カットアップ・リミックスを椹木が推奨していたことを話しました。選択して秩序を壊すということを勧めていたのです。しかし現在は誰もがサンプリングを行い、秩序と反秩序があいまいになっていると指摘します。
欧州は社会的フォーマットをいまだに信頼している部分があり、機能しています。それはロマン派が社会から世界に出ていくギリシアに憧れ、世界に出てから社会に再着地しているというようにです。再着地した人は同じように見えて確実にバージョンアップしています。藤幡先生の表現を借りれば、「白痴」を通して世界が開示され、その世界はカオティックであったり全く違うものであったりするけれど、社会をreconfirmしていく機能を担っているということになるそうです。
しかし現在日本では社会のみんなが「白痴」であるため、「白痴」を演じても本物なのか演じているだけなのか区別がつかない。戻ったつもりが戻れていなかったりするわけです。


浅田彰
藤幡先生・宮台先生のコメントに応じて浅田先生は、タイムリーな目撃者はアーティストの他にもいるとして、*6「白痴」を「反時代的な目撃者」と位置付けました。例えばビデオアートの始まりがテレビの上に磁石を置いたところにあるように、時代の産物に対してまともな使い方をしないところに面白さがあるわけです。
そして本物の「白痴」が見分けにくいなかで、アーティストたちはどんな立ち位置にいるのだろうか?との疑問を投げかけました。



以下、ICCシンポジウム第1回の私的なまとめ(3)へ続くかもしれません。

【追記】 続きはhttp://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20060612です。よろしければ合わせてご通読ください。

*1:<ひきこもり>はカルトにはいかない、という指摘は面白かった

*2:かつて自傷行為は深刻に受け止められていましたが、現在では「リスカ」は非常にカジュアルな問題になってしまっています。

*3:「人格という盾への撤退」

*4:予測可能になってしまうということ。変化や向上に寄与しない体験

*5:「延々バカみたいに掘ってると思ったらいつのまにか運河になった」という比喩を述べていました

*6:例としてはジャーナリストやエンジニア