相手を信じていなくても知識は委託できる

先日友人と「知識の外部委託」について話していたのですが、そのとき彼は「自分の考えをアウトプットとして外に出さなければならないし、そこで概念を抽出できなければ意味がない。そして抽出したアウトプットを売り込むのは、他でもない自分だ」と述べていました。
私は不思議でなりませんでした。彼は普段から「wisdom of crowdsの可能性」とか「これからはエディターシップの時代」などと言っていましたし、自分の思いつきを自分に帰属させようと固執するような人ではないと感じていたからです。
何でも自分でやるという志向と集団知的志向は、アウトソーシング志向/非アウトソーシング志向というように対立的に把握でき、相容れない部分があります。*1


そのことを指摘すると「他人を信用していなかったから」という自己分析をしてくれました。もし仮に不信が理由であるとするならば、それは間違っていると思います。


リソースとしての「知識」は使っても減るものではありません。相対性理論をあなたが利用したからといって、私が使えなくなってしまうということはありません。そういう意味でnonrivalrousなのです。だから帰属さえ気にしなければ、たくさん種を撒くことが可能です。idea virusですね。


かつては頒布にかかるコストは膨大だったので、下手な鉄砲でも数を撃てば当たる式の手法は選びにくいものでした。しかし現在はそうではありません。web2.0がもてはやされたこともあって、これまでになく「知識の外部委託」をしやすい環境になったと言えます。めぼしい人にアイデアや知識を話すだけでなく、知識が集積され編集される場に置いておくだけで知らない人たちが自分の発想についてコメントしてくれたり討議したりしてくれるのです。
よって何か特別な理由がない限りは、「一子相伝」のようにしない方が可能性が広がると言うことができるでしょう。信用できる誰かに限定して知識の外部委託をするというのもピンポイントで良いのでしょうけれど、何に使えるんだかさっぱり自分でもわからないというような不確実性の高いアイデアであれば、ばら撒き型の方が有効です。


つまり信頼は後付けで十分だということです。とりあえず見境なくアウトソーシングしてみて、良い反応を返してくれた人とさらに深い関係性を結んでいけば良いのです。
それに、そもそも最初から信頼できる人なんてほとんどいません。直感的に信じるのでなければ、時間をかけることで、あるいはある人や事柄を通じて徐々に信頼していくものだと思います。


将来信頼できる人と出会うために、自分の知識やアイデアをより良いものにするために、あなたの知識を広く任せてみませんか?*2

*1:つねにそうとは限らないでしょうけれど。

*2:と、ここまで書いたところで。たぶん頒布とか複製とかのコストが低下してために、ある領域における外部委託の意味が少し変わって、open source的なものに繋がったのだと思いました。