変容と教養

インターネットの普及によって国境を越えた問題が頻繁に起きています。また情報処理能力の飛躍的向上といった技術革新によっても重大な問題が発生しています。そうした問題は、憲法や法令が想定していなかったことです。
例えば、音声ファイルを圧縮してネット上で簡単に配信できるような技術が開発され(MP3ですね)、CDがコピーされメールされて、ネット上にアーカイブができるというようなことは、50〜60年前には想定できなかったことです。


こうした現状があるためにサイバースペースにおける法整備が必要となってくるわけですが、現在の議論は分野においても時間においてもミクロ的視点で語られているように思います。私は、このテーマを学際的かつ包括的に、目先のことにとらわれ過ぎずに研究・教育をすすめるプログラムが要請されると思います。


「現在の議論は分野においても時間においてもミクロ的視点で語られている」と述べましたが、この議論における典型的主張は「サイバースペースは無法地帯であるから規制を強化しなくてはならない」というものです。
このような主張は、目先の規制をどうかわすかとか現状の規制の範囲内に収めるにはどうすればよいかとかいったことが念頭にあるためになされます。例えば、著作権法というものがもう完成された動かしがたいものとしてあるという前提の下で、それを遵守して安全な側にまわるにはどうすればよいかという形式で議論が行われているのです。


でも新しい技術(例えばMP3)が開発され流布された時点で、現行法の想定外のこと(劣化せずに大量コピーができたり、それを全世界の人に配信できたりすること)が起きています。技術を後戻りさせることは決してできません。
こうした場合には現行法を類推適用するか、そうでなければ改正するしかないのですが、それには時間がかかります。かつては技術革新も緩やかだったため、後手後手にまわってもある程度法秩序が維持できました。しかし現在はめまぐるしいほどのスピードで技術は進んでいきます。だから長期的視野をもってあらかじめ議論を重ねておき、見解を確立しておかなければならないのです。


そして長期的視野をもつには、今後サイバースペースがどのようになっていくかを大まかにでも良いので、出来るだけ予測しなくてはなりません。非現実的予想に基づいて議論しても仕方ないからです。ここで文理の融合が必要となってきます。
例えば、現在のインターネットではEメールの秘密保持性がはがき程度でしかないと言われていますが、二重鍵システムまたは非対称暗号システムを使えば飛躍的に機密性は増します。それに、セキュリティに関する技術は今後進展すると言えます。このことを前提とした上で、機密性の増進と規制のしやすさについてなどを考慮し、同定を拒否することは権利かどうかやネット上の身元確認が民法・商法でどのように扱われるべきかなどを考えなくてはならないでしょう。


さらに言えば、広義の規制は法律に限りません。それはつまり私たちの行動に影響を及ぼすものすべてのことであり、法律以外には規範、市場、アーキテクチャに代表されるコードがあります。例えば、IPv6を普及させたいときの方法は、法律で義務付ける、デジタルIPv6の素敵さを伝えて教化する、VistaなどIPv6対応機器が市場に出回るようにする、IPv6でないとネット上のサイトにアクセスできないようにするかいちいち警告文を出してIPv4ユーザを煩わせるといったような4種類の方法があるのです。
これら4種類の方法のうち、いちばんコストがかからず効果が高い方法が選ばれるわけですから、規制の総体をとらえ、それが技術革新によってどのような変化をしたかを考える必要があります。つまり工学、法学、社会学、経済学、心理学、哲学などの視点を導入しなくてはならないのです。


「学際」というとどっちつかずの中途半端なイメージがつきまといます。これはおそらく学際的であることをひとりの個人で実現しようとするから、少し無理があるのではないかと思うのです。一人のひとがこのような理念モデルを実現するのではなく、異分野のスペシャリスト同士で話し合うこと、そしてその討議の土台となるようなプラットフォームはどこまでで、それをどのように正統化していくかが課題です。
山形浩生は『新教養主義宣言』でそれを「教養」と呼んだのだと思います。ある程度汎用性のあるOSのようなものとしての教養、討議のプラットフォームとしての教養です。


しかし残念ながら、教養主義はその差異化機能を失いました。教養を備えることが魅力的ではなくなってしまい、インセンティブが失われてしまったのです。*1
もちろん術語を知らなくても思考することは可能です。でも自分で思考するときのツールとして使うことは大変有効ですし、なにより「本歌取り」のように一言に特定の文脈を背負わせることができて省エネになります。


「知らないより知っている方が良い、しかし知ろうとは思わない」。この部分にまずは手をつけるべきなのです。そこで思いつくのは教養主義的思索系アイドルを作り上げることですが、それは先述の意見と矛盾しますし*2、まさに人身御供だと思います。
応答性に耐えられるひとを祭り上げる以外手はないのでしょうか・・・。

*1:詳しく知りたい方は、雑記帳 - 教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化を参照してください。

*2:「「学際」というとどっちつかずの中途半端なイメージがつきまといます。これはおそらく学際的であることをひとりの個人で実現しようとするから、少し無理があるのではないかと思うのです。一人のひとがこのような理念モデルを実現するのではなく、異分野のスペシャリスト同士で話し合うこと」のあたり