10代のぜんぶ

10代のぜんぶ

10代のぜんぶ

yomoyomo さん「解散式」というかモヒカン族決起集会で幹事をしていくださっていたyucoさんに、その年齢でライアカ!とかを企画するって考えられませんでした、とか年上のひとにバシバシ物を言えるのってすごいですね*1、と言われて思い出したのがこの本。


私はもう10代ではありませんが、この本の「10代」にはぎりぎり含まれています。
本書は主として一都三県すなわち首都圏の15歳から19歳までの男女を対象としたデータやインタビューから、「失われた十年」や現在の社会構造を反映し対応しようとしている様子を描き出そうとしています。
ちなみに「女の子のぜんぶ」と「男の子のぜんぶ」の男女二分構成です。マーケティングですね。


この本は、博報堂の人が作ったものだからしょうがないとは言え、女オタクとか文化系女子とか呼ばれそうな女の子たちがほとんどフォローされていません。
例えて言うなら渋谷・原宿・池袋あたりにいそうな女の子たちについてはおそらくかなり良い線をついていたと思うのですが、下北沢・吉祥寺・中野あたりが好きな女の子たちはまたちょっと違う感覚を持っているような気がします。もちろん「10代」が共通して有すると思しきものはあるとは思いますが。


さて、本書で指摘されていることのひとつとして、

 10代が、かなり冷静な眼差しを持っていることや、彼女たちの間にある独特のコミュニケーション作法、人との距離感など、違いを感じることは多くある。しかし、今までの座談会やインタビューを通じて思うことは、彼女たちは形骸化したものをできるだけなくし、「素」であることを追求しているということである。
 (略)
 10代女の子はできるだけ正直に、自分が思う気持ちや感覚に沿って生きていたいと望んでいるように見える。(p124)

ということがあります。しかし同時に

 複数のグループ間を渡り歩く10代女の子の交友関係は、その場にいかに早く適合できるかが大切で、そこに本心があるかどうかをゆっくり考えている暇はない。その場その場で空気を読んで適応してゆかなければ、コミュニケーション能力の低い者として、受け入れてもらいにくくなるのだ。

ということも指摘されています。「男の子のぜんぶ」においても

自分が10代の時は、およそこんな対人関係能力や社交性は持ち合わせていなかった。彼らの態度に関心はするものの、取材後、ある疑問がいつも残った。彼らは10代という若さで、どのようにして「営業スマイル」を身につけたのだろう。(p131)

とあるので、これは「10代」が共通して有すると思しきものとして指摘してしかるべきことのようです。著者のひとり原田曜平氏はこのことに関して以下のように結論を下しています。

 また、異性に限らず、対人関係が広がったため、必然的にいろいろなタイプの人と接する機会も増えた。年相応以上の社交性を身につけないと、この広い人間関係は乗り越えられない。
 (略)
営業スマイルによって、広い人間関係と上手く折り合いをつけながら、より快適に生きようとしている。(p157)

 彼らの多くが、ネットワークが広がっていることを既成事実として前向きに受け入れているのだ。そしてその上で、営業スマイルを身につけることによって、広がり過ぎた人間関係からはぐれないためのリスクヘッジをしている。(p158)

たしかにリスクヘッジとしての側面はあるかもしれません。でもこれは「大人」なら誰でもやっていることではないでしょうか。それより注目すべきは初対面でも芸人のように空気を読み合って盛り上げることや、「素」であることへの希求だと思います。


ここで白田先生の「意思主義とネット人格・キャラ選択時代」を引用しますと、

 社会的キャラでは、地位が先行していたから、キャラの奪い合いはすなわち社会的地位の奪い合いであった。ところが、仮想的キャラの場合は、フラットな位置づけにあるそれぞれの人々が、まず「場」の支配を争い、次にキャラを奪い合う競争をする。秩序とか権威といったものが決定してしまう社会的キャラの場合よりも、自由な参加者が自由に奪い合う仮想的キャラの場合のほうが、競争は熾烈かもしれない。これが、「キャラ選択」が重要な価値としてみられるようになった理由ではないだろうか。


 学生達が異口同音に指摘していたのは、自分が新しい「場」に入ったときに、どのキャラが割り当てられるかが決定的な重要事項であるということ。主役級あるいは主役サポートキャラを獲得できれば、その場を支配する側にまわることができる。悪役やザコキャラを割り当てられれば、その集団で楽しくやっていくことは困難になる。こうしたキャラの争奪が「場」でそれとなく、かつ静かに進められる。この過程で、ある役割のキャラを複数の人物が目指す場合、「キャラがかぶった」として争いになったりする。こうした過程は、現実の人間集団の構成と運営が、仮想世界のシミュラークルとして進められるという捩じれた状態を意味している。具体的には、たまたま集まった、それぞれ個性をもった40人の子供たちによってクラスが自然発生的に構成されるのではなくて、主導権を握った数人の子供たちによってクラスの性格が、たとえば「金八先生」のクラス、「ごくせん」のクラス、「中学生日記」のクラスと設定され、それに合わせて、その他の子供にキャラが割り振られ、あるいは、その他の子供たちが「場」を読んで自主的に獲得していくというわけだ。


 この「場」が強制してくるキャラを受け入れ、それを演じうることが「場の空気が読める」ということであり、逆にそれに抵抗するならば「場の空気が読めない」ということになる。日経の記事では、「10代の男の子が嫌いな男の子」の1位が「場の空気が読めない人」ということだ。この事からも「場」が強制してくる仮想的キャラの圧力の強さがうかがわれる。見えなくなった「イジメ」と「キレる」不可解な子供たちの状況も、この仮想的キャラの圧力から説明することができる。
http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/050607/02.html

仮想的キャラの圧力は、空気読みの圧力やキャラ争奪戦などを引き起こします。これが前述の2つの特徴にもつながってくるのでしょう。


ただし私が直截的な物言いを好むのは「自分が思う気持ちや感覚に沿って生きていたいと望んでいる」というよりも、言いたい放題言っても結局は「無礼な小娘」*2キャラに回収され、ある意味安全装置として働くだろうと高を括っているからです。それにいくつものコミュニティに属し常に移動しつづけるとき、キャラの演じ分けをするとなるとコストがかかるからでもあります。
要するに空気なんて読みたくないからどこでも少数派であるキャラを使うことで*3仮想的キャラの圧力から下りて、でもキャラに回収させているつもりです。
そういうわけで、著者のひとり中村恭子氏が

 職業への安定志向も、家庭への安定志向も、変えようのない不安を組み込んだ上で自分を納得させようと導き出した処世術である。友達や親や日本や自分を取り巻く環境に対する不安を批判精神として外に出すことなく、そのまま受け入れる。(p127)

と言及する「反・批判の姿勢」なんて私は持ち合わせていないので、世代論ってどの程度有効なんだろうなとも思います。それに

 将来の職業に関して言えば、高学歴を担保にしつつも、専門性を身につけようとしている。(p212)

という「男の子のぜんぶ」でなされていた指摘の方が個人的に結構当たっていたりして、男女二分もどうなのでしょうとも思ったり*4

*1:yucoさんとは横田さん非モテ問題とか、こういったネット/プログラマ界隈での女子率の低さなどについてお話をさせていただきました。その際、横田さんとかid:cedさんとかをdisったりシュッシュッしていたので、それを指してのお言葉かと思われます

*2:(c)ヨコタン

*3:馴れ合ってないモヒカン系コミュニティーでは多数派になるけれど、そこではキャラ争奪戦は起きないので問題ないのです。

*4:「女の子のぜんぶ」では「実にシンプルに、『食べていくため』の仕事」と思っているという指摘がされていた。まるでOSSに貢献するギークみたいですね。