意外と知られていないこと‐しったかぶれる法学用語解説(3)

自然法と実定法】
普通、「法」と言う場合は実定法*1を念頭においています。
実定法とは制度、慣習、判決など人為により生成される法のことです。少し難しい言い方をすると、実証的に経験的に把握される形で存在し、現実の効力を有するものということです。

 
ところが西洋の法思想では、普通に考えた場合の「法」よりも抽象的でイデアみたいなものがある、と考えてきました*2。19世紀はじめまで実定法の上位に自然法(natural law)が存在していて、人間の社会生活は実定法の規律より上の自然法の規律に従っていると考えられていたのです。
今から考えるとちょっと不思議な感覚ですが、自然法は人為から独立した、人為の作為によって動かされない何らかの事態・秩序のこと、または先験的すなわちア・プリオリな倫理的法則価値によって必然的に存在するものとされていました。正しい人間生活のための規範のことで、どちらかというと人類共通のルールみたいなものだと捉えると分かりやすいかもしれません。


このような自然法論・自然法思想は、時間によって移ろって地理によっても違ってくる特殊的・相対的実定法に対して、恒常的に人類を拘束する法を見定めようとして作られました。自然法は、絶対的に妥当すると信じられた価値を言葉によって定式化しようとしたのです。
自然法は、歴史的・民族的制約を超えた普遍的妥当性を持つものと位置づけられました。だから自然法の認識は、単なる形式的認識ではなくて何らかの直覚や啓示が想定されていて、宗教的体験に近いものと想定されていたようです。


ところで、自然論のなかには自然法に直接の法拘束力を認めて、それと矛盾する実定法を否定するという立場がありました。ちょっと例示して言いますと、自然権に基づく抵抗権が認められるなどです。だから自然法と言うと、革新的なものとか革命的なものを連想させることがあります。要するに左っぽいってことです。

 
さて普遍的であるべき自然法ですが、その内容として提示されているものは多様でした。なんだか矛盾していますよね。よって「自然法論の歴史は、あたかも自然法なるものはありえないことを証明しているかのような歴史である」と表現されることもしばしばあります。
多様となる原因のひとつは、それぞれの歴史的制約の中で現実法的・保守的な要素と現実否定的・革新的要素が混在していたからだと言われています。
例えば、中世キリスト教的自然論は規律と秩序を重視し、地上の権力(君主、家長など)へ素直に従うように説いてたりします。でも一方でキリスト教的理想が重視されて権力への批判を行ったこともありました。国家が何らかの理由で教会の事業に協調するときは前者の理論が持ち出され、国家と教会の利害が合わないときは後者の理論が持ち出されたりしたのは想像に難くないでしょう。要するにご都合主義でころころ変わってしまっていたのです。


ドイツにおいて、17世紀から一定の人生論や幸福論などを出発点として、合理的な演繹を経て、自然論は体系化されたと言われています。それは人間の理性をとても信頼して、あらゆる法的な判断の公準に設定したということです。当時の実定法を大幅に取り入れることで成立したということではありますが。
それはおいておくとして、自然法論の中興の祖にしてオランダの法学者グロティウスは主著『戦争と平和の法(De jure belli ac pacis, 1625)』において戦時にも適用される普遍的なルールを設定しようとしました。その過程で人間には「自己保存の欲求」だけじゃなくて「社交性の欲求」も生まれつきあるから、約束を守ったり他人のものでも大切にしたりするのが「自然」だと考えたのです。
トーマス・ホッブスはグロティウスの「自己保存の欲求」という考えをさらに推し進めて、有名な『リヴァイアサン』のなかで自己保存の貫徹によって「万人の万人に対する闘争」が起きてしまうと述べました。そしてこの危険な状態から脱するために社会契約が必要だと説いたのです。
ホッブズ自然権について論じましたが、ジョン・ロックはそれに依拠しつつも自然状態には自然法もある、という立場を取りました*3
このような自然法論は法典編纂に基礎を提供しました。しかし同時に、このような詳細な体系化は自然法の内容をがちがちに固定してしまって、弾力性を奪うことになったのです。


18世紀から19世紀初頭において、法の歴史性・民族性を強調する歴史法学が台頭しました。歴史法学は、近世ドイツの自然法論が法の歴史性を無視した硬直した法体制だと批判したのです。
大陸ではサヴィニーが、少し遅れてイングランドではメインが歴史法学の旗手となりました。サヴィニーはフランス革命やライン同盟などに影響を受けて、法を「民族精神の発露」と見なして、歴史とともに変化すると考えました。メインはダーウィンの進化論に影響を受けて「原始社会」から「成熟社会」へと至る法の発展過程をみつめて法則を見出そうとしました。自然科学的でなめらかな変化のイメージは、自然法論の想定する啓示とか革命理論などドラマティックなイメージとは全く違っていたのです。
これにより、ヨーロッパ古来の自然法論は衰退し、実定法だけが現実の拘束力をもつ法だという法実証主義*4が体勢を占めるようになったのでした。


ところが第二次世界大戦後、自然法論がドイツを中心として再燃しました。原因は人権(基本的人権)を組織的に蹂躙したナチスの法体制の反省と、そのナチスに対して無抵抗だった法実証主義に対する反省です。
ナチス法ではインフレを背景に「公共の福祉」というベクトルだけが巨大化して「自由」と「平等」は押さえ込まれてしまいました。でもそこでの「公共の福祉」は社会的弱者やはみだし者の切捨てを意味していたのです。それでも、議会も大審院も形式的合法を偏重して、権力の正当性基準を学問の圏外に押しやり、結果的にナチス的蛮行への地ならしを行ったと評価されています。
第二次世界大戦後のドイツでは法実証法主義が大きく批判されました。法実証主義は ”Gesetz ist Gestez”(「法は法」「悪法も法」)という呼び声のもと、ドイツの法律家層を恣意的にして犯罪的な法に対して無防備にしてしまったという批判です。
それを示したのは、実定法と正義との矛盾が耐え難い程度にまで達する場合、少なくとも法の成立にあたって、正義を意識的に無視しているのであれば、法ではないというラードグルフの批判でした。


現在は、第二次世界大戦の一種興奮的な自然法論も冷めています。法実証主義の再評価も見られ、流動的な状態のようです。

*1:人定法、positive law

*2:自然法論の成立は紀元前5世紀のギリシアストア派の哲学者・法律家たちによって、自然界を道徳とともに支配する単一の世界法則という観念と結び付けられました。

*3:話は逸れますが、ロックはこのとき人間は労働によって自然から得られたものを自分の所有物にできると主張し、私有財産自然権に含まれるとしました。この自然権論は近代市民社会のニーズに合っていたので広く受け入れられ、名誉革命アメリ憲法に多大な影響を与えたのです

*4:自然法を否定し、法学の対象として実定法のみを扱う。