保護の不完全さが「著作権」を守ることもある

「中古店、特に新古書店を正当化する論拠は何だろう?」の続き。当該コメント欄を参照していただければわかりますが、

権利消尽あるいはファーストセールドクトリン的結論を導く正当化根拠としては、これまでのところ、大まかに三つの考え方が提示されています。(1)所有権理論(Eigentumstheorie)、(2)取引の安全保護説、そして(3)黙示の許諾理論です。一番有力なのはですが、その内実はじつはそんなに深められていないというのは、ゼミでやったとおりです。(1)は、有体物と無体物の区別という観点から一時期強く批判されましたが、人間の素朴な感情を的確に表しているということで近時再評価する人もいます。(3)は、少なくとも特許製品の並行輸入について実務上採用されている理論ですが、特許製品の修理か生産かという論点で、国内事案でもその積極的活用を説く見解が有力になってきました。

http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20070513/1179004233#c1179061989

とある通り、権利消尽の正当化根拠は3つあります。そのうち2番目の取引安全保護説についてやや経済学よりに立って考察したのが「中古店、特に新古書店を〜」というエントリでした*1
先のエントリの要旨をまとめますと、著作権親告罪なので監視にかかるコストが結構なものになってしまうし、紛争がたくさん起こりすぎると取引安全が図れないので、あらかじめ、新品市場から中古市場に流れることを踏まえ、著作権者は最初の価格付けをするような制度をとって、遡及する権利を認めないことにする。じゃあどうやって価格を付ければ良いかというと、中古品の価格をどんどん足していくとき、足していく数が少しずつ減っていく(つまり中古市場に流れるごとに価値が減っていく)と、足す数の最後の項は無限に0に近づくので、仮に無限に中古品が流通するとしても一定の値になって収束するから、少なくとも論理上は無限等比級数の和を使って価格付けができる。でも、最近はブックオフやアマゾンユーズドなどによって中古が簡単に買えるようになってきているため、著作物の有体物的性格が薄れてきて無体物的性格が相対的に強くなってきていると言え、消尽理論を適用しきれなくなってしまう部分もあるかもしれない、というものでした。


さて、以上のような内容についてatsushienoさんからご意見をいただきました*2。まずは

書物における著作物の有体物的性格が、変わった気はそんなにしない。非書物については変わってきているけど。

http://d.hatena.ne.jp/atsushieno/20070513/p1

という指摘についてですが、これは私の表現が下手でしたね…。媒体と流通のレイヤーは分けて論じるべきでした。言いたかったのは、流通の形態が急激に変わって、今までB2Cなだけだった書籍の流通がC2Cのダイレクトな関係を創り出せるようになると*3「無体物のような」有体物ができてしまう可能性があるということでした。有体物的性格が現れる前に、つまり媒体の価値が低減するより早く流通するようになった、ということです。


次に

inf.さんの話の立て方は、譲渡権が消尽するのは二重取りだからというのに、貸与権は二重取りを前提にしているじゃないか、そもそも二重取り禁止の正当性は何なんだ?…という流れになっているのだけど、問題は二重取り禁止の論理の正当性にはないように思う。同一の金銭債権の多重取りは、普通に考えれば不当利得だ。

で、そもそも二重取りに当たるかどうかという点が問題になるが、同エントリの冒頭にある「その物については目的を達成して権利が尽きた」という一節が全てを物語っていると思う。貸与と譲渡の大きな違いは、所有者が著作権法上の用益を保持しているか否かにあるわけで、譲渡については既に複製物取得にかかる著作権的な対価を取得し目的を達成していることになる。譲渡品を貸与に使用すれば、新たな対価請求の必要が生じるけど、これも譲渡権のみが消尽することと整合する。

というご指摘は全くその通りです。私の説明不足が原因です…。

先に引用した通り、ゼミで頒布権が消尽しているか否かを議論している際に、権利消尽あるいはファーストセールドクトリン的結論を導く正当化根拠として出てきた取引安全保護説が「内実はじつはそんなに深められていない」んじゃないか、という話になったという背景事情が全然書かなかったのが良くありませんでしたね。それと二重取りになるかどうかが問題じゃなくて、そもそも権利消尽がどうして認められるのかを問題にしたかったのであって、これもまた至らない表現でした。
確かに法令上は「『その物については目的を達成して権利が尽きた』という一節が全てを物語って」はいるのですが、じゃあその制度趣旨はいったい何で、それは公正な目的なのだろうか、というところから、とりあえず「取引安全の保護」という目的だったとして、なんでそれが認められるか考えてみようという趣旨だったのです*4


要するに、森博嗣さんが

僕が書いたことは、「こうあるべきでは?」という僕の意見である。現状が(たとえば法的に)どうなっているか、これまでどういった経緯があったのか、それらがどう解釈されているのか、という点に関心はない。そうではなく、僕が観察して、「ここがおかしい」と思ったから書いた。
 「こうするのが本来では?」という意見を出すと、「君は現状の規則について知らないのか?」と反論されることが(特に会議などで多く)ある。それに対しては毎回、「ええ、知りませんよ。べつに知りたいとも思いません。どういったかたちが理想か、という議論をしているのに、そんな知識が必要でしょうか?」と答えている。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/05/post_1159.php

と述べていらっしゃいますが、そういう方に対して、取引安全保護という理由から現状をどう肯定的に説明できるか、という試みでした。すなわちatsushienoさんの言う

で、問題の本質は何なのかというと、単純に法の不完全性にあって、たぶんそれはむしろ在ることで現実とのバランスをとっているのではないかと思う。

ということを言語化しようとしていたのです。うーん。でもやっぱり難しかったですね。
かつて書いたことではありますが、仰るとおり、法律で保護しきれない部分があります。これまでの規制は意識的にその不完全さによって保護している部分と、物理的に保護しようがないから放置してた部分とがありました*5
保護の不完全さにはときとして価値があります*6。しかしながら、アクセスと利用を技術的に規制する力はほとんど完璧に近くなることが予測されます。今は結構大雑把に規制する力しかなくてゼミのケース課題みたいなリージョンフリーに関する黙示の許諾の解釈問題が発生したりしていますが、いずれ完璧に近くなるでしょう。少なくともそういうインセンティブはとても強いです。保護が完成したら不完全性を保証するものはなくなってしまいます。市場も政府も「欠陥」をシステムに盛り込む必要はないからです。私は法の不完全さにときとして価値があると今でも考えています。保護の不完全さに本当に価値があるならば不完全さを確保しなくてはならず、それは(まあ私が法学をやっているからということもあるでしょうが)法によってくらいしか実現できないんじゃないかと思っています。

*1:まあ詭弁っぽいかもしれませんけど…

*2:ありがとうございます

*3:アマゾンのマーケットプレイスなど

*4:問題点をわかりやすくするために貸与と譲渡を対比させてみたのもよくなかったかしら…

*5:詳細な議論はLessigがCODE―インターネットの合法・違法・プライバシーで行っている

*6:二次創作をしたり、時には友達にコピーして紹介することなど