「リアルから地続きの異郷」と「リアルと切断された異世界」

権利消尽とか黙示の許諾の話はまだ考え足りないのでたぶん続きますが、本日は休題。


学生が件名も名前も書かずにメールを送ってくる、という事例から

ケータイメールのトランシーバー的エクリチュール?が身体化し、時間・空間を隔てた相手に対する想像力が欠如してしまうと、このやりとりのどこがおかしいのかもわからない。

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20070513/1178991639

という話題に。これを受けて

ネットワーク感覚の違いをここでも感じる。メールは知っている人同士でやりとりするものだと思っているのがケータイ感覚、知らない人から送られることもあると考えるのがPC感覚。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20070514/ktaipcmail

という分析がされています。kanoseさんは以前のエントリでも、SNSやTwiiterが知己の繋がりを強化したいという「ケータイ的ネットワーク感覚」に訴えるサービスだとした上で、

実際には、どちらかの属性しかないということではなくて、誰でもケータイ志向とPC志向の両方を持っている。PC志向が強くてもケータイ志向がない訳ではない。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20070429/ktaipc

と仰っています。このことは以前、Spiegelさんも『ウェブ人間論 (新潮新書)』における梅田さんと平野さんのケータイの特性に対する意識の違いとして取り上げていらっしゃって、「ケータイでは相手からのメッセージがダイレクトに届く(少なくとも端末からはそう見える)」と指摘した上で、

ケータイのこの特性はサービス提供者から見て都合がいい。ケータイはユーザをダイレクトに繋ぐ Identifier として使える。しかもユーザから見ても(ケータイのアドレスは簡単に変えることができるので)非常に気安く利用できる。そりゃあもう, OpenID なんか目じゃないほどの使い勝手の良さだ。だから「プロフ」みたいな(常識的に見てめちゃめちゃ危なっかしい)サービスも成立し得る。
ケータイ型ユーザはネットに公共性や社会性を感じていないし求めてもいない。そこには「私」と「(私の写像としての)あなた」しかいない。それ以外は全て外部に押しやられ存在を許されない。

http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000299.shtml

と仰っていました。さらに別エントリで、Spiegelさんは前掲書について

そう,この対談本はネットを「リアルから地続きの異郷」とみる立場と「リアルが切断(または解放)された異世界」とみる立場の間で交わされた議論だと位置づければ納得がいく。どれだけ「あちら側」のコミュニティが島宇宙化しようとも,それが「リアルから地続きの異郷」であるかぎり「リアル」をノード(いやむしろハブ)として島宇宙(=異郷)同士を接続することができる。しかし「日本でのネットはメタかネタ」であり,そこから見えるリアルは所詮「ゲーム的リアリズム」に過ぎない。つまり島宇宙(=異世界)化というのは「リアル」が「こちら側」から遊離してしまうことに他ならない。

http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000303.shtml

とも仰っています。


さて以上の話を繋げると、ネットワーク感覚にはケータイ的感覚とPC的感覚の二種類があり、さらにネットワーク観には「リアルから地続きの異郷」と見るリニアな立場と「リアルが切断(または解放)された異世界」と見る非リニアな立場があるということになるでしょう*1

まとめると、ケータイ的感覚においては、一人称の「私」と「(私の写像としての)あなた」のみが存在し、知己の繋がりを強化したいという欲求によって駆動されます。PC的感覚においては、常に三人称たる「知らない人」も常に意識しており、知らない人とアドホックな繋がりを指向します。つまり、人間関係の比重の置き方が違うのです。また、リニアなネットワーク観はリアルな社会とネットの社会がなめらかに繋がっているとする見方であり、非リニアなネットワーク観はリアルとネットに大きな段差(ステップ)があると考えて、並列に存在する別の世界と見ています。

では、感覚と見方の違いはどのような関係があるのでしょうか?ケータイ的感覚におけるコミュニケーションの所作は、PC的感覚における所作とは違っていますが、そこにもまた厳格な儀礼や作法があり、血を吐くような思いで相手に対して想像をめぐらせている場合が多々あります。例えば、真剣な謝罪の意を表明したいときは絵文字や顔文字を使わない、相手を褒めて持ち上げるのは二文まで*2など不文律はたくさん挙げられます。よって、ネットワーク感覚とネットワーク観はそれぞれ独立の属性であり、4つのマトリクスを構成すると考えられます。また、kanoseさんが指摘していたように、同じ人でもどの属性も持ち合わせ、どの位相であるかは時と場合によって違うというだけでしょう。


ところで、ネットワーク感覚についてですが、なんとなく以前読んだあまり関係なさそうな文章のことを思い出しました。一神教的な感覚は神と私という二者の間の絶対的な関係だと言われ、多神教的な…というより日本的な感覚だと、世間というよくわからないものがあって、相対的関係に置かれていると言われています。でも、よく考えてみると横並びで規範を示すものがいないがために、世間というよくわからない主体の見えないものが絶対的な地位を占めます。それに対して、一神教的な世界では神を通じて皆が平等であり、信仰を通して隣人と通じ合っており、神以外の人は相対的なのだ云々…というような内容だったと思います。
そのままあてはまるとは言えませんが、要するにもう少し詳細な分析が必要で、ある視座を導入するだけでがらっと見方が変わるのかもね、ということです。

*1:リニアな立場は鈴木健さんが言う「なめらか」と同じような概念

*2:文章量にもよるが、それ以上だと嘘っぽく媚びていると看取されてしまうかららしい