ブログは意味ある引用の束

SpiegelさんがWeb 2.0 時代は「無断リンク禁止」サイトを増殖させる?においてライアカ!のインタビュー記事ブログは「引用の束」を引きつつ、以下のようなエントリを書いてくださいました。

ある引用への言及を別の人の言葉を借りて行うことはよくある。ここでもそんなことはしょっちゅうやっている(今まさにこの記事でしていることがそうだ)。こんなやりかたが著作権法の要請する「公正な慣行と正当な範囲内」にマッチしているかどうか疑問ではある。が,「ある引用に対して別の引用を以って言及する」というやり方は Web というプラットフォームでは意味がある。何故ならそれによって別々のコンテンツを「リンク」によって繋ぎ合わせることができるからだ。そしてそれに「意味がある」ということをコード化し権威付けているのが Google (厳密には GooglePageRank アルゴリズム)だ。 「ブログは「引用の束」」というときの「引用」というのはおそらくそういう意味だ。


http://www.baldanders.info/spiegel/log/200610.html#d08_t1

的確に主題を捉えていただいていると思います。ありがとうございました。


近日公開予定の仲俣さんとのインタビュー最終編で、Web というプラットフォーム上で「意味がある」ように「リンク」によって繋ぎ合わせることをエディターシップとして取り上げていましたので、少し驚きました。私の発言部分だけ少し先に公開してしまいますと、

……なんか種明かしじゃないんですけど、実はこの質問全体を通してお聞きしたかったのは……私はエディターシップというのは3つの要素があると思っていて。まずはいろんな情報がいっぱいあるなかでどう情報を選ぶのか、抽出するのかという部分。そしてその情報をどんなふうにに配列するのかという部分。だから選び出して、その上で配列すなわちアレンジして、さらにそれをどんなふうにパッケージングするのかというのが3つめ。配列をさらに繋げるということですね、全然関係のない配列を。そういう作業があると思っていて。

というようなことを述べました。「いろんな情報がいっぱいあるなかでどう情報を選ぶのか、抽出するのか」というところはまさに「Google (厳密には GooglePageRank アルゴリズム)」が担っていくものでしょう。
「その情報をどんなふうにに配列するのか」ということは、例えば時系列の記事単位で良いならブログですね。しかしそれだけではないというのは竹熊・白田両先生が指摘するところです*1
エディットはある程度アルゴリズムの設計によって行うことが出来て、とりあえずひとつのお皿の上にのせて供すことはできます。でも盛り合わせの妙というものも確かにあり、その妙味は人に依拠するものなのではないでしょうか*2


それまでの「公正な慣行」を壊す可能性があるから、当然こういった引用の状況に対して感覚的に反発する人たちはいるだろう、とSpiegelさんは上記エントリでおっしゃっています。
しかし「公正な慣行」のもとの書籍でも相互参照性のなかで「一冊ではなく複数の本がつくる世界や、学術世界の全体における文脈みたいなもの」に依拠しているのです。このことを書籍の全体性と相互参照性にて仲俣さんは指摘していらっしゃいます。

 書かれた本の中身だって、とりわけアカデミックな本ではそうですよね。「巨人の肩に乗って」という表現があるけれど、どんな研究もかならず先行研究の上にのっているわけです。文学の世界だってそうだし、ジャーナリズムでもある意味ではそうでしょう。むしろ紙の本の方が、デジタルなテキストより、歴史的な蓄積や、テキスト間での相互依存の度合いが高いともいえる。
 紙の本というのはたしかに、見た目は単体の本だけど、誰だって実は、かつて本を読んだ経験から本を書いているわけです。


http://inf.ifdef.jp/interview-na-11.html


それに例えば叙景詩であっても、その風景をどうして選んだのかということを考えると限りなく抒情詩に近似していくと感じられるように、あるいは借景や本歌取りの例を出すまでもなく「型」の継承や相互参照性について、単に単線的あるいは直線連鎖的なモデルは現状にあまり合っていないように思われます。
このような点を考えると、著作権法の想定する創作モデルやオリジナルってどういうものなのだろうと考えてしまいます。それを解き明かしたのが『コピーライトの史的展開 (知的財産研究叢書)』であるわけですが、しかし解釈論的解決もそろそろ限界です。でも立法論として現状と合わせることができそうにないという点に法の性質が見えますね。

*1:以前のエントリでも引用しましたので参照してみてください

*2:というか人にしかできない部分ってなにが残るのだろうというのが今回のインタビューでお伺いしたかったことでした