再帰性に耐えうる者と、決定者たりうる者と
kosonetuさんに宮台真司の欲望にて当方のICCシンポジウム第1回の私的なまとめ(2)をご紹介いただきました。ありがとうございます。さて、このエントリ中にて
宮台真司はいつも再帰性に耐えうる=決定者足りうる=エリートみたいな図式を常識のように話しているから、
(俺はわからないけど)きっとみんなわかってるんだろうなぁと思っていたけれど、別にそうでも無かったんかね。
とありましたが、これは「決定者足りうる」のではなくて、再帰性に耐えられる人間にしか決定できないということだと思われます*1。決定という行為は、再帰性に耐えられなければ行い難いことですし、思考の一貫性を保たなくてはならない行為です。再帰性に耐えられない人は主体の維持ができなくなるため、動物化せざるを得ません。そういう意味で「動物化するポストモダン」を生きているのです。
そして問題となるのはおそらく、主体の維持ができる人間が決定者になるべき魅力があまりないという点にあるのだと思います。結局、見返りがないということです。動物化した方が楽ですしね。
あえて意義を見出せるとしたら義憤とか義務感と設計それ自体の楽しさくらいでしょうか。しかしnoblesse obligeが仮にあったとして、それを背負うだけの魅力がなければ誰も背負わないのです。しかしどうしても制度設計という面で社会をまわしていく人たちは必要です。
社会の階層化を肯定せざるをえないのは、そういう人がきちんと見返りもらえないと社会が回らなくなるからなのです。そしてここでさらに問題が想起されます。階層化の際にエリート/非エリートを誰が選ぶのか、基準は何なのか、その正統性は誰が担保するのかという点です。
以上のことが明確に現れていたのが以下の応答だと思います。
【斎藤環】
宮台先生の問いに対して斎藤先生は、強い再帰性を生きている人すなわち制度的エリートというわけではないと応答していました。またその逆も真であり、制度的エリートは再帰性を生きていないとも述べていました。エリートのイメージが解離しているということだそうです。
【宮台真司】
それに対して宮台先生は、確かに解離は存在するとした上で、プラットフォームを選択して支える人たちは必要であると再度仰いました。そしてその問題は現段階では未解決であるとして「誰が」「何によって」「どのように正当化するか?」が課題であると示しました。
階層ごとの移動の自由度は確保しておかないとならないと述べましたが、なんだかんだと言っても米国の手法が魅力的に思えるのは*2ヨーロッパだと社会階層が固定してしまっているからです。
またオタク肯定論を否定することについて。オタクを肯定する、といったときのオタクというのは、映像を見ていただければわかると思いますが、東浩紀先生が言うところの第三世代*3です。第一・第二が問題にならないのは、第一・第二はオタクではあるけれど、問題意識もある程度は持っている、つまり動物ではないからです。
第三世代のオタクを肯定してしまった瞬間、それは社会から「降りる」ことを積極的に認める言説になってしまいます。「降りる」自由は認められるべきだと思いますし、それはその当人にとっては心地良いもので「オタクであることによって再帰性の輪から逃れうる」ものです。だからこそ心理学者としての斎藤先生がそう言うのはまさに当然の帰結と言えるでしょう。
そしてその裏返しとして、社会学者としての宮台先生が「(反論することのベタさを認識した上で)反論する」のもまさにベタで当然の「あえて」です。社会学者として、社会に出ないで動物としてオタクとしてのみ生きていこうとする人達が大量発生するかもしれない状況を、少なくとも立場上、看過できなかったのでしょう。