「作る世界」から「使う世界」へ

ライアカ!のサイバー・カスケードとフリーペーパーにおいて

inf. サイバー・カスケードという問題がありますよね。皆タコツボ化していくと、どんどん自分たちの似たり寄ったりな意見のなかで、その反響だけを、同じ意見を聞いているから、思い込みが激しくなってしまう。それはネットで顕在化しやすい問題なんじゃないかという議論があって。そういう話をしたときに、茶会員の一人の方が「いや、だって皆ネットだけ見てるわけじゃないよね。雑誌だって新聞だって読んでるじゃないか」と指摘されました。そうするとノイズのような、聞きたくなくて関心のないことも必ず入ってくるわけだし、検索エンジンとかでも予期しない出会いというか……。


仲俣 「誤配」が起きる。


inf. そうです、誤配ですね。誤配が起きるから大丈夫だという意見がありました。あったんですが、もし仮にこの状態が続けば雑誌って皆読まなくなっちゃうし、新聞だってもしかしたらそうかもしれないですよね。そういう意味では雑誌のもつ雑多さ、というものの可能性を『季刊・本とコンピュータ』にあった「編集楽日」のやりとりで気付きまして。


http://inf.ifdef.jp/interview-na-16.html

というやりとりをしましたが、このなかで「いや、だって皆ネットだけ見てるわけじゃないよね。雑誌だって新聞だって読んでるじゃないか」と仰ったのが未識魚さんでした。


未識さんはいつも慧眼でいらっしゃるのですが、サイトリニューアルで考えたことにおいても

常時接続が当たり前になった2000年くらいから、ウェブ上のCMSでデータを操作したいという欲望が強くなってくる。当然、ウェブサイトはデータを操作するツールごと作らねばならない。ここら辺の時期に、ユーザと技術者とが完全に分断したんじゃないかなぁ。普通の人がCMSを作るのは無理だ。当然、誰かが作ってくれたCMSを利用するだけになる。多くの技術者も、自分でCMSをとやかくする気は、かなり失せた。ある程度以上の技術者にとって、ウェブ用の CMSを自分で実装することは全然難しいことではない。だが、あまりにも工程が面倒くさい。ウェブは、サービスの提供者と利用者とに綺麗に分断された。ウェブは、「作る世界」から「使う世界」に変わったのだ。これが「ブログの普及」という言葉で表される現象だろう。


http://ofo.jp/blog1160868605.phtml

と仰っていて、なんだか思っていたことをとても的確に表現されてしまったな、という思いを抱きました。


今は、インターネットを動かしている醍醐味を感じにくいときだと思います。IPなどさまざまな標準を決めるプロジェクトは、自発的に集う個人よりも大企業や政府関係機関の影響が大きくなってきていますし、そもそも一個人がそうしたプロジェクトに参入しようという発想すらなくなりつつあります。一個人がネット全体を設計したり、どのアーキテクチャが良いか議論したりする場面はほぼ皆無になり、良くも悪くも今ある状態は前提条件として話が進んでいます。
つまりある一面において、自分が参加することで世界が変わるという体験がしにくくなっているのです。それどころか、携帯電話が普及したこともあって技術がブラックボックス化し、モニタの「向こう側」にある世界、そこでどんなコードが動いているのだろうとかそのコードはどんな思想のもとにつくられたのだろうとか、そういったことに興味を持つこともできにくくなっています。

ブログは言論の開放なんだっていう言説は、伊藤穣一を嚆矢として社会学系の学者からもよく出てきたけど、それはある程度正しいがやっぱり半分は嘘だ。誰かが作ったシステムという、他人の手のひらの上で踊るコトも、確かに言論の自由ではあるだろう。でもそれは、言葉が起こせる範囲での変革だ。書籍に情報を載せることと、根本的には変わりはない。しかし、新しい情報システムを自由に作れることというのは、文字通り世界をひっくり返しかねないことだ。その昔インターネットに胸躍らせた本質はそこであって、言論の自由のレベルじゃ変革の可能性が一段違う。情報システムが世界をひっくり返すなんてアホかという、昔の佐藤俊樹みたいな反論を試みたい人は、GoogleWinnySkypeのことでも考えてくれればいいと思う。

と未識さんは述べていらっしゃいますね。これにはまったく同感で、でもハッカーでもエンジニアでもない私は地団駄を踏みたい気持ちに駆られることもあります*1
「下のレイヤ」へ興味を持ってはいても、遅れてきてしまったなという感じがしてしまうからです。せめて1995年頃に中高生だったら違っていただろうか、と。今からでも追いつくことは可能でしょうけれどそこまでのリソースが割けそうにないのです。


実際の技術開発や保守・運用には関われませんが、私は先端に関わったという実感を持ちたいという欲求はありますし、普段自明のものとして使っているインターネット・サービスが、どのような人たちのもとで、どのような思索や逡巡を経て提供されているかというのを見てみたい、そしてその場所に参加して何らかの良い影響を与えて、自分にとっての世界を変えてみたいという密かな野望もあったりするわけです。


もちろん、ブログのエントリやはてなアイデア等によっても以上のことは一応実現できるのですが、やはり直接的体験とネット上の体験は、得られる情報量が圧倒的に違います。ブログやメール上で拝読したり応答したりした後でお会いした方々からは、得られるものが増えました。それにトラックバックをいただいたりしていることを考えると、多少なりとも影響を与えられているのではないかと思います。端的に言えばインタラクションの高密度体験を経て、相手のコンテクストを読みやすくなった結果、理解がしやすくなったし、私の考えを知ってもらったことで、いくばくかの影響を与えられるようになったということでしょう。このような経験則から、やっぱりReality2.0なんだよなと思いつつ、でも自分の限界をひしひしと感じてライアカ!のようなアプローチを取っています*2


そしてそのような変化について、cedさんがギートステイトに足りないものでも仰っているように

bookscanner氏やSpiegel氏が反応してくれた私の読後録では、書物の電子化によって、人の思考方法そのものが変化してしまう可能性が語られている。例として挙がっている、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考は、書物の次元でテキストの構造化を行おうとした実例だが、このように書物の扱われ方が変化することで、思考の方法そのものが変わってしまう可能性もあるのではないか。仮にギートステイトなるプロジェクトを行うのであれば、社会の在り方の変化だけでなく、人の思考の在り方の変化についても語るべきなのではないか。


書物を読むように思考する、ではなく、ネット上のテクストを読むように思考する、ということが思考の在り方に及ぼす影響、というものがあるのではないか。単に読者で終わってしまっていた書物の世界と、読者にも作者にもなりうるネットの世界では、ものの考え方そのものも変わってしまうのではないか。そういった変革の先にある自己の在り方とは一体何なのだろう。


http://d.hatena.ne.jp/ced/20061009/1160400730

私たちのあり方そのものを大きく変えてしまうものである可能性すらあるのです。

*1:いや、せめてRubyだけでも、とか頑張ろうとはしているんですが……

*2:少し距離をおいて現状を見れるのかもという若干の利はありそうですが