レジス・ドゥブレとジャン・ジグラーの対談内容に対する私見

外山さんとか東先生が言っていた「内戦」についていろいろ探していたら2003年に書いた文章を発掘。当時は高校生でしたよ……若い。




レジス・ドゥブレは情報による世界統合について「世界は統合化されればされるほど、ますます細分化される」と表現している。これは、世界が市場経済の合理性の下で等質化されると、人々が他との差異を基にしたアイデンティティの確認ができなくなり、それを求めるために細分化されるという考えである。


しかし、この相関はジャン・ジグラーが言うところの「矛盾」とは違う矛盾を含有している。人が皆他者との差異を求めるという点での等質化である。この矛盾が「特異性がつぎつぎに世界性を引き受け」られなくなっている現状の原因だ。もちろんレジス・ドゥブレが述べたように、人類は歴史の主体ではなく対象である。対象を理性的に観察し分析し考察するのは自己だ。つまりこの問題の深刻さは、近代化が進みすぎた結果、もはや個人対世界という体位しか成立に得なくなってきているところにある。


ただし、この近代個人主義はたいへんヨーロッパ的であり、北アメリカの経済とスタイルによって支えられている。言い換えれば、西洋的知識人の間で発生したものが地球規模にまで広がったものである。だからレジス・ドゥブレの「西洋の文化を世界文明に仕立てあげようとしている」という言葉は正しい。


西洋の文化による文化の均質化という問題や南北問題、アイデンティティー・クライシスといった種々の事態が複雑に絡み合うなかで、現状を打破するような兆しはないように思われる。ジャン・ジグラーが言うようにアイデンティティを求める運動は「根は非常にアルカイックで深いにもかかわらず、普遍的な概念レベルには達していない」からだ。集まったと思ったら解体し、拡大したかと思えば分裂する連帯の担い手たちは常に少数派であり、たしかに「絶滅寸前」の存在である。特殊であるためには少数であることを保たなくてはならないのだから、当然といえば当然である。しかし、かつての情報機器が、あるいは現在の服飾の流行がそうであったように、マイノリティからマジョリティへの変化は劇的である。この普及作用はもちろん、北アメリカ的な、ヴィジュアルで、最も金のある文化での、映像による統合化、衛星通信による世界の統合化の一端ではある。しかし、手段と目的のすり替えはよくあることだ。西洋文化を覆い返す文化は西洋文化を逆用して発生する可能性がある。