国籍法問題関連:「原告は日本国籍を持っていないから、憲法14条の『すべて国民』の対象ではない」という意見について

前回記事「DNA鑑定」導入までの5つのハードルのコメント欄にてharisenさんから以下のようなご質問を頂きました。
コメント欄に返答を書きましたが、長くなってしまったので別途エントリーを立てることにします。国籍法を語るための基礎知識・おまけ編です。

これは、半分、言葉遊びみたいな質問なので、あれなんですが
ちょっと質問させてください。

憲法10条「日本国民の要件は法律で決まりますよ」
憲法14条「日本国民は平等ですよ」
国籍法「日本国民の要件は○○と××です」

という状態で、憲法14条を理由に国籍法が違憲だというのはよく理解できないんですよね。

なぜなら憲法14条は、日本国籍取得者の間の平等を保証する条文で、
その日本国籍取得の条件が憲法10条と国籍法で決められているからです。

たとえば極端な話、国籍法に『日本国籍の取得は、キリスト教徒に限る』とあったとしても
現行憲法には一切矛盾しないと思うのです。
なぜなら、憲法14条は日本国籍取得者であるキリスト教徒間の差別的取り扱いを禁じているだけであって
国籍法上日本国籍を取得できないイスラム教徒を保護するわけではないように読めるのです。
(別に、最高裁の今回の違憲判決が本気で納得できないわけではないです。
ただ、条文を素直に読むと、上記のような考え方に至るというだけです。
最高裁の「言いたいこと」はわかるのですが、それは条文の行間を読むような努力をしないといけないです。)

もし、お時間がありましたら、質問に答えていただけると幸いです。

http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20081205/1228492409#c1228521401

harisenさんのご質問は、憲法の文言を素直に解釈するのであれば「日本国民」のみに平等が保障されるはずだから、平等原則違反を理由として国籍法が違憲となるのは論理的におかしいのではないか、ということです。
確かに第三章のタイトルは「国民の権利及び義務」となっていますから、国民以外の人を対象にしていていないようにも思えます。

「国民」と「何人」の使い分け?

しかし、例えば憲法21条1項が

21条1項
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

としているように、主語が「何人」になっていることもあります。文言を忠実に読むのであれば、憲法上は「国民」と「何人」という言葉が使い分けられており、「何人」という場合は日本国民に限らずとも(外国人であっても)保障されていると考えることができるのではないかと思います(言い換えれば、第三章のタイトル以外のことも規定されているかもしれない余地があるということです)(余談ですが、信教の自由は「何人に対しても」保障されますから、日本国籍取得をキリスト教徒に限るという「極端な話」はできないことになります)。


しかし、このような解釈に則ると困ったことが生じます。憲法22条2項をご覧ください。

22条2項
何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない

ここで文言を素直に読むと、日本国民でない者(外国人)にも国籍離脱の自由が認められていることになります。なぜ、日本国民でない者にもわざわざ国籍離脱の自由を認めなくてはならないのでしょうか。
このような不都合は、実は憲法が「国民は」と「何人も」を厳密に区別して規定していないという前提に立つと、解消することができます。

人権は国家とは関係なく守られるべきもの、という思想

日本国民と日本国民でない人を厳密に区別しない原因は何でしょうか。それは、人権の性質に関わることです。
一般的に、人権は「人が人たることに基づいて当然に有する権利」だと言われています。ここで注目していただきたいのは、人権が憲法や国家によって与えられたものではなく、人間の価値そのものに由来する前憲法的・前国家的利益であるという考え方が背景にあるということです。すなわち、参政権社会権など国家を前提とする後国家的権利を除けば、基本的に人権は、国家がなくても守られるべきものなのだという思想があります。

そして、このような思想は憲法からも読み取ることができます。憲法前文をご覧ください。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

ここで注目すべきは、第3文目の「人類普遍の原理」という言葉です。ここに、前述の考え方である自然法思想の現れを見ることができます(憲法より上位の存在を認めているということです)。また、第2文目の「国民の厳粛な信託による」国政という考えに、ジョン・ロックの影響を指摘することができるでしょう。

このように、平等原則を含む自由権は前国家的利益を有するので、日本国民でない外国人にも保障されています。このことは、憲法が国際協調主義(前文第3段、 98条2項)を採用していることからも裏付けられます。世界人権宣言第15条は「すべての人は国籍を持つ権利を有する」としていますし、子どもの権利条約第7条は「子どもは、出生の後直ちに登録される。子どもは、出生の時から名前をもつ権利および国籍を取得する権利を有」するとしています。

憲法に反するコードは書けない

harisenさんもご存知のように、憲法は日本の最高法規(第10章、98条)です。したがって、法律の一種たる国籍法よりも上位におかれています。喩えるならば、憲法は一番上位の仕様書であり、それに反するコード(法律)は書けないということです。
この国籍法について14条に反するか否かを判断することは問題ないと言うことができます。繰り返しになりますが、参政権社会権など国家を前提とする後国家的権利を除けば、その権利の性質の許す限り、憲法14条は日本国民(日本国籍取得者)以外の者にも平等を保障しているからです。よって、

なぜなら憲法14条は、日本国籍取得者の間の平等を保証する条文で、
その日本国籍取得の条件が憲法10条と国籍法で決められているからです。

という解釈はとれないということになります。

訴訟の形式という視点から

以上が条文を素直に読むことを心がけた上での議論ですが、この問題について違うアプローチから見てみましょう。関連する別の記事にりんごさんが訴訟論的観点からコメントして下さっています。大変わかりやすいので、一部引用してみましょう(りんごさん、ありがとうございます)。

2つ目。憲法14条1項の改変の点につきましては確認訴訟の意義を誤解されているのではないかと思いました。そもそも原告の選択した確認の訴えとは現在の法律関係の確認を求める訴えの形式のことです。ここでいう現在の法律関係が認められるためには、原告の権利又は法的地位に危険又は不安が存在し、この危険や不安を除去することが有効かつ適式であること(即時確定の利益)、かつ、給付訴訟といった執行力の伴う他の手段が存在しないこと(補充性)の存在が必要です。
 「原告の子供はまだ国籍を持っておらず、この「すべて国民」の対象から外れます。」というのは国籍法の違憲判決により新たに国籍が「創設」されると考えているのではないでしょうか。この考え方は判決により直接に法定の効力が発生するという点で形成訴訟を前提とした場合に該当するものです。しかし、本件での確認訴訟は現在原告が「日本国民たる地位」にあることを前提に、原告の主張の妥当性を審査するものです。

http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20081116/1226827321#c1228387661

上記がりんごさんのコメントの一部ですが、慣れませんと、もしかしたら法律用語の解釈が少し難しいかもしれません。そこで、ごくごく単純(かつ若干乱暴な)なアナロジーで表現してみます。
テーブルの上に丸い果物があるとします。現段階ではりんごなのかみかんなのか他の果物なのかよくわかりません。他の果物ならパイは作らないけれど、りんごだったらアップルパイを作れるから確かめてきてくれ、とharisenさんが頼まれたとしましょう。
その際、「丸い果物」を見に行きもせずに「あれはりんごではない」と答えるのは頼まれたことを果たしていないということになります。
何が言いたいかというと、本件のような確認訴訟において、「原告は国籍を持っていないのだから、『すべて国民』の対象ではない」というのは、結論の先取りにほかなりません(もちろん、そもそも確認訴訟の要件である即時確定の利益や補充性の要件などを満たすか否かという論点は別です)。

条文の行間を読む努力

以上が私からの返答です。もしかしたら前述のような議論は、harisenさんにとっては「条文の行間を読むような努力」にあたるかもしれません。ですが、現実の事案はとても複雑だということを念頭に置いて頂きたいと思います。
条文を素直に読んで解決できるのであれば、裁判官も弁護士も多大な時間と労力を払うことも、頭を寄せ合って悩む必要もないのでしょう。しかし、紛争の解決を図る(妥当な結論を導く)には法律を解釈し適用する際に「行間を読むような努力」も必要なのです。条文は抽象的ですし、ときとして「欠陥」「盲点」があったりするからです。

私の返答も、多くの法学者や実務家や裁判官たちの「行間を読むような努力」の長くて深い議論の蓄積のほんの一部を紹介したにすぎません。法律学は小難しくて一読した限りでは矛盾しているように感じたり、杓子定規な印象を受けるかもしれませんが、調べればそれなりに筋を通していることが理解できると思います。そして、わかりやすく法学を概説しているテキストもたくさんありますし、質問すれば私よりきちんと詳しく答えてくれる先生もいます。
harisenさんがこれを機に法律学への興味関心を維持してくださったらうれしく思います。

国籍法改正について語るための基礎知識(3):「DNA鑑定」導入までの5つのハードル

国籍法改正案は4日の参議院法務委員会において全会一致で可決、5日の参議院本会議で成立した。
この国籍法改正について、主として「偽装認知」による不当な国籍取得を懸念する立場からの反対運動が展開されているが、改正の前提となった最高裁違憲判決について少し誤解したものも見受けられたので、以前のエントリーで図解したり解説を加えたりしてきた。
下記の2つのエントリーを通読して頂ければ、

  • 国籍法3条1項のどこが問題だったのかということ
  • 最高裁も仮装認知(「偽装認知」)の可能性や血統主義との整合性について検討していたこと
  • 仮装認知防止策として現行国籍法に合理性があるとは言えないと判断したこと
  • 裁判所が新しい政策を打ち出せないから仮装認知防止策を新たに立法することを許容(ないし期待)していたこと

などがわかると思う。

「偽装認知」防止のためのDNA鑑定という選択肢

さて「偽装認知による不正な国籍取得ビジネス」を懸念する立場からは、その防止策として、生物学的な父子関係を科学的方法で検証することが提案されていることが多い。つまり、国籍取得の際にDNA鑑定導入を求める立場である。

最高裁の近藤補足意見でも

例えば、仮装認知を防止するために、父として子を認知しようとする者とその子との間に生物学上の父子関係が存することが科学的に証明されることを国籍取得の要件として付加することは、これも政策上の当否の面とは別として、将来に向けての選択肢になり得ないものではないであろう

と指摘されていた。

そして今回の付帯決議には、

  • 父子関係を科学的に確認するDNA鑑定導入を検討すること
  • 国籍取得の届け出に疑義がある場合は父親に聞き取り調査をし、父子が一緒に写った写真の提出を求めること

などが盛り込まれたらしい。このことから、国会にもDNA鑑定導入を求める声があるということが伺える。しかし、DNA鑑定の義務付ける提案を民主党は受け入れず、法案自体に加えられることはなかった。

このことについて、不満ないし疑問に思う人も多いと思う。そこで、仮装認知防止策としてDNA鑑定を導入するにはどのようなハードルがあって、どのような立場をとれば導入することができるのかということを考えてみたい。

DNA鑑定の対象はどこまで?

まずもっとも基本的な前提だが、仮装認知防止策は「憲法に適合する範囲内」でなければならない。
先だって国籍法3条1項が憲法14条1項の平等原則に反すると判断されたのだから、差別的な取り扱いにならないように細心の注意を払わなくてはならないだろう。さもなくば、再び違憲の判断が下され、せっかくの防止策が無効になってしまう。
したがって、DNA鑑定の対象をどこまでの範囲にするか、ということが課題となると思う。

現行国籍法3条1項では、生後認知され、さらに両親が婚姻すれば*1、子は日本国民として認められる。このことを「準正による国籍の取得」という。



しかし、生後認知されたのみでは日本国籍が取得できなかった。



この両者の間の「区別」が非合理的な差別であると最高裁が判断したのであるから、少なくともこの2つのケースを「区別」することは許されないだろう。よって、生後認知された準正子と生後認知のみされた非嫡出子は、国籍取得に際して生物的父子関係の証明を必要とする立法をするという提案がありうるだろう。
しかし、この範囲は果たして合憲だろうか?



生後認知された非嫡出子と生前認知された非嫡出子の間の「区別」を差別だと指摘する法曹も多い。そうだとすると、上図の右側の三人の子をDNA鑑定の対象にすべきなのだろうか。
また、嫡出子と非嫡出子の間の「区別」を平等原則に反すると考える立場もあるだろう*2。そのような立場からすれば、非嫡出子と準正子の父子関係だけをDNA鑑定の対象にするのは差別ということになる。
となると、日本国籍の父と外国籍の母を持つ子が国籍取得する際は、すべてDNA鑑定を要するとすべきなのだろうか。

以上のような問いについて、つまりDNA鑑定の対象はどの範囲が妥当かという問題について、相手を説得できる合理的根拠を持った答えを準備しなければならない。

DNA鑑定の対象は広範に

仮装認知防止のために生物学的な親子関係を証明しなければならないという立場を、仮に徹底するとしたら、おそらくすべての認知についてDNA鑑定を義務付けるということになると思う。あるいは、両親の婚姻関係を問わず、出生した子すべてを対象に、生物学的親子関係の科学的証明を求めることも考えられる。
このようにすれば、DNA鑑定義務化について「区別」はないことになるから、鑑定費用負担の問題や自己決定権、プライバシー権、検体のすり替えなどの問題を別にすれば、第一のハードルはとりあえずクリアできそうである。科学的に「白黒はっきりする」のだから、このような手法が望ましいと思う人も多いかもしれない。

しかし、DNA鑑定の対象を平等原則に反しないようにできたとしても、更なる課題があるのだ。

親子関係は血の繋がりか?

法的な親子関係を規律しているのは国籍法ではなく民法である。改正前の国籍法3条1項が「認知」と「婚姻」を要件としていたことからもわかるように、国籍法には民法も深く関係する。

さて、法的親子関係は、血縁すなわち生物学的親子関係と必ずしもイコールではない。このことは、普通養子(792条以下)や特別養子(817条の2以下)に限らず、実親子関係にもあてはまる。条文上も

第七百七十二条 (嫡出の推定)
妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。

第七百七十九条  (認知)
嫡出でない子は、その父又は母がこれを認知することができる。

などとなっている*3判例実務においても、認知者に意思能力が無い場合には、たとえ血縁事実(生物学的父子関係)があったとしても任意認知が無効とされるなど意思の要素が加味されている。
つまり、民法はDNA鑑定などが未発達の時代に成立したから、科学的親子関係の立証を要求していないというわけではないのだ。

血縁主義 vs 意思主義

しかし他方で、血縁事実(生物学的父子関係)に反している場合に、任意認知が無効とされた判例もある*4。一体これはどういうことだろうか?

実は、法的親子関係をめぐる基本的なスタンスとして、意思主義と血縁主義という(時として)対立する二つの考え方があるのである。血縁主義は事実主義とも呼ばれ、生物学的真実を尊重する立場だ。一方、意思主義は父や子の主体的選択を尊重するという立場である。

この二つの立場は、「法的親子関係が何のために存在するのか?」という大きな問いをめぐる争いである。この対立は、いわゆる「200日問題」や代理母問題などさまざまな局面で顔を出す。それだけ根本的なところに関わるものだということができるだろう。


確かに、民法は科学技術が未発達の時代に成立した。実親子関係に生物学的要素をあまり求めていなかったのはそうした時代背景のためで、それは法の「欠陥」と言えるものかもしれない(現に問題も多い)。
だが、そのような「欠陥」でも現代的意義を帯びることもある。子どもの保護や法的地位の安定を考えたときに、血縁主義だけだと不十分ということもあるのである。私は、生物学的事実よりも「何が子どもの保護になるか?」が最大の決め手になるのではないかと思っている。

国籍法だけでなく民法も変える必要

もちろん、血縁主義的立場を採用するのであれば、DNA鑑定義務付けは許容されうるだろう。しかし、衆議院法務委員会で法務省民事局長が

偽装認知のためにDNA鑑定すべきじゃないかと、これもよく分かる議論なんですが、実は議員の皆様方ご承知と思いますが、日本の民法の親子関係を決める手続きと言うのは認知で決まる。
そのときにDNA鑑定を出せなんていうことは言わないわけでございます。
ここに家族の情愛で自分の子供だと認知したと言うのだったら、それでとりあえずの手続きを進めて、
後でおかしなことがあったら親子関係不存在とかそういうのでひっくり返していく。あるいは嫡出否認なんかでひっくり返していくと。こういう法制度。これが日本の独特の制度でございます。
それを踏まえますとDNA鑑定を最初の認知の段階で持ち込むことになりますと、やはり親子関係法制全体に大きな影響を及ぼすなど、これを私どもとしては考えざるを得ません。

と述べていることからも示唆されている通り、仮装認知防止のために生物学的な親子関係を証明しなければならないという立場を徹底するとしたら、国籍法(に関連する諸手続き)を変えるだけでなく、民法の改変も必要となるだろう。または「親子関係法制」と折り合いをつける形で、DNA鑑定を導入する手立てを考えなければならない。


現状として、上記のような点を踏まえた仮装認知防策の具体的な提案を寡聞にして耳にしたことが無い。おそらく反対運動に勢力を注いだからだと思われるが、法案が通過したため、反対派だった者は次のフェイズに移行するのではないかと思う。
国籍法改正に関心を持って実際の行動に移した人は多いと聞く。だから、国籍法改正後も何らかの政治的活動を継続していくという人もいるだろう。そうした人たちに参考にして頂きたい。

*1:民法789条1項の婚姻準正

*2:この論点は、嫡出子と非嫡出子の間にある相続分の違いについて論じられることが多い

*3:嫡出子の「推定」は反証があれば覆せる。また、このような規定のために「772条の推定を受けない嫡出子」または推定の及ばない嫡出子の問題が生じたりする

*4:子または利害関係人による反対事実の主張による。ただし、「利害関係人」に認知者本人も含まれるか否かには争いがあるが、近時の学説では含まれると考えているものが多い。しかし、認知者本人は含まれず反対事実の主張ができないとした旧判例もある

国籍法改正について語るための基礎知識(2):裁判官たちは何を争い、何を国会に託したのか

前回は国籍法改正の前提となった国籍法3条1項違憲判決について図解した。まだ読んでいない(そして読む気がおきない)人のために少しまとめておこう。
国籍法は基本的に、子が出生したとき父または母が日本国民なら子も日本国民にするという「父母両系血統主義」を採用している(国籍法2条1号)。したがって、日本国民である母が産めば、父が外国人であっても、出生時点で子は日本国籍を取得できる。
でも、父が日本国民である場合はちょっと複雑になる。両親が結婚していて嫡出子であるときや、胎児のうちに認知されていれば、(たとえ遺伝上の事実とは異なっていても)法律上の親子関係が生じているから、子の出生時に父が日本国民であると言え、子は日本国籍が取得できる。
生後に認知された場合でも、両親が婚姻関係を結べば(これを準正という)、国籍法3条1項の規定によって日本国民として認められる。しかし、生後認知されたのみでは日本国籍が取得できないから問題になった。
このことをまとめたのが下図である。



ここでのポイントは、国籍法3条1項が実際上、準正子のみに日本国籍を認め、生後認知されたけれど両親は結婚していない子は対象外にしている点である。

以上のまとめでぴんとこなかったら、違憲判決の図解を参照して頂きたい。

裁判官の間でも見解が分かれる事案

では本題に入ろう。この裁判では、主として2つの争点があった。

  1. 国籍法3条1項は、憲法14条の平等原則に反するか?
  2. 国籍法3条1項が違憲であるとしても、裁判所が原告の国籍を確認してしまって良いのか?三権分立からするとまずいのではないか?

最高裁判所には最高裁判所長官を含む15名の裁判官がいて、違憲のおそれがあると考えたときは15名総出で事件にあたるのだが*1、まず第一の争点で違憲派と合憲派で割れ、さらに第二の争点でも意見が分かれた。つまり、最高裁も一枚岩で違憲という見解を示したわけではないのである。
今回は第一の争点だけに絞って話を進めていきたいと思ので、そこだけ取り上げて結論だけ先に言うと

  1. 国籍法3条1項は憲法14条違反である … 12名
  2. 国籍法3条1項は憲法14条に反しない …  3名

だった。
法廷の多数派の意見が上記のようだったので違憲となったわけだが、もちろん少数意見にも頷けるところが多い。しかも、同じ違憲という判断であっても、裁判官によっては微妙に理由付けが違っていたりして、補足意見も出たりしている。
賛成意見・反対意見はそれぞれどのようなものだったのだろうか、そして互いにどのような批判をしていたのだろうか。

最高裁の多数派は、なんで違憲にしたの?

まず、メインである法廷意見から説明していこう。
法廷意見では、国籍のハードルをどれくらいのものにすべきかは立法府(国会)の裁量だが、合理的な理由なく差別すれば憲法14条1項違反だとして、

  • 「区別」をすることが正当かどうか
  • 国籍法3条1項の立法目的とその「区別」の関係が合理的であるのかどうか

この両方を満たさなければ違憲だとしている*2


ここでいう「区別」というのは、生後認知された準正子と生後認知のみされた非嫡出子の間にある「区別」である。そして、

  • 準正子は「父との生活の一体化が生じ、家族生活を通じた我が国社会との密接な結び付きが生ずる」だろう
  • 諸外国も同様の立法をしていた*3

から「父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得」するという準正要件を設けたことは合理的だったと述べている。ここで重要なのは、血統主義の補完として「日本との密接な結び付き」という判断基準が提示されている点である。
したがって、国籍法3条1項は

日本国民との法律上の親子関係の存在に加え我が国との密接な結び付きの指標となる一定の要件を設けて、これらを満たす場合に限り、出生後における日本国籍の取得を認めることとしたもの

だから、その目的を達成するために準正要件を設けたのは合理的な根拠があったとした。つまり、法廷意見も目的の正当性と、目的と手段の合理的関連性を一度は認めているのである。


しかし法廷意見は、家族生活や親子関係の実態が変化・多様化しているし、国際交流の多様化しているから

その子と我が国との結び付きの強弱を両親が法律上の婚姻をしているか否かをもって直ちに測ることはできない

と続けている。さらに、諸外国でも法改正が行われているとか国際人権条約子どもの権利条約でも差別が禁止されていることなどを指摘して

前記の立法目的との間に合理的関連性を見いだすことがもはや難しくなっている

ため、現在では差別になっているとの見解を示した。父母の婚姻というのは、子にはどうすることもできないことだから、そのような要件をもって日本国籍という基本的な法的地位が奪われることは看過できないということも触れられている。

では反対意見はどんなものだったの?

それに対して、反対意見では法廷意見が述べるような家族生活や親子関係の実態が変化・多様化が本当に起きているのか、を問うている。

非嫡出子の出生数
昭和60年 14,168(1.0%)
平成15年 21,634(1.9%)
父が日本国民・母が外国人とする子の出生数
昭和62年 5538
平成15年 12,690

このような統計を提示した上で、国民一般の意識に大きな変化がないと見ることもできるのではないかと言うのである。また、安易に諸外国の動向を合憲性の考慮事情とすべきでないと批判している。


それらに加えて、非準正子には簡易帰化(国籍法8条1号)により国籍を取得することもできると述べている。これについて多数意見である法廷意見は、帰化法務大臣の裁量行為だから、準正子と非準正子の間の「区別」は存在していると反論している。


反対意見は仮装認知(偽装認知)のおそれについても言及しており、「日本との密接な結び付き」がないような場合でも国籍取得を認めることになるのではないかと危惧している。仮装認知について法廷意見は、そのようなおそれがあるにせよ、準正要件と仮装認知防止との間において合理的関連性があるものとは言えないと反論している。
この問題について近藤補足意見では、防止策として準正要件を設けることに合理性があるとは言えないとしつつ、

例えば、仮装認知を防止するために、父として子を認知しようとする者とその子との間に生物学上の父子関係が存することが科学的に証明されることを国籍取得の要件として付加することは、これも政策上の当否の面とは別として、将来に向けての選択肢になり得ないものではないであろう。
このように、本判決の後に、立法府が立法政策上の裁量を行使して、憲法に適合する範囲内で国籍法を改正し、準正要件に代わる新たな要件を設けることはあり得るところである

と述べている。

裁判所は何ができて、何ができないのか

以上のように、裁判官同士の意見の対立の一部をおおまかにではあるが、確認してきた。今回の国籍法改正に反対するにせよ賛成するにせよ、最高裁の見解はとても参考になると思う。

しかし注意していただきたいのは、近藤補足意見にも見られるように、これはあくまで裁判所の議論であるということだ。「国籍法3条1項が違憲であるとしても、裁判所が原告の国籍を確認してしまって良いのか?三権分立からするとまずいのではないか?」という第二の争点とも関わるが、裁判所は、あくまで法律を解釈し適用し個別の法的紛争を解決するための機関である。
したがって、新しい政策を打ち出すということはできない(せいぜいが可能性に言及するくらいのものである)。立法論は国会でやらなくてはならない仕事なのである。そしてこれは選挙権を有する国民の仕事でもあるだろう。


というわけで、国籍法改正について理解の一助となってくれれば幸いであるし、あなたが何か良い政策を考え出したのであれば僥倖である。



【追記】
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なお、上記のことをライセンスしたからといって、フェアユースなどあなたの権利が影響を受けることはまったくありません。引用や私的な使用のための複製などもご自由にしていただけます。教育目的の利用なども歓迎します。詳しくは利用許諾条項をお読みください。

画像はinflorescencia's fotolife国籍法フォルダからダウンロード可能です。ご活用頂ければ幸いです。

*1:これを大法廷と呼ぶ http://www.courts.go.jp/about/sihonomado/houtei62.html

*2:立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても、なおそのような区別をすることの立法目的に合理的な根拠が認められない場合、又はその具体的な区別と上記の立法目的との間に合理的関連性が認められない場合には、当該区別は、合理的な理由のない差別として、同項に違反する」

*3:届出による準正子の国籍取得が認められた昭和59年国籍法改正当時、父母両系血統主義を採用する他国では、準正の場合に限って国籍取得を認めるケースが多かった

国籍法改正について語るための基礎知識(1):違憲判決の図解

国籍法改正について反対意見が出ており、署名活動にまで発展している。

そもそも、国籍法の改正(立場によっては「改悪」)が急がれているのは、2008年6月に最高裁が国籍法に違憲判決を出したことを受けてのものである(判決全文は最高裁の判例検索システムからGET)。

というわけで、改正の原因となった違憲判決について解説を加えたいと思う。なぜなら、各所で詳細な説明が出ているが、法学を齧っていないとちょっと読解が難しいのではないかと思ったからだ。なお、筆者である私自身は、後日改めて述べるかもしれないが、今のところ本件改正について判断を保留しているという弱腰な立場であることを予め表明しておこう。

そもそも国籍法って何?そんなに大切なの?

日本人の両親から生まれて日本で暮らし続けているとあまり意識しないかもしれないが、国籍法はとても重要な法律のひとつである。なぜなら「日本国民」になれるかどうかが、この法律によって規律されているからだ。
このことを、法律学らしく条文から見てみよう。憲法10条は

第十条
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

としている。これを受けて作られた法律が国籍法である。国籍法1条は、その目的を明示しており、

第一条
日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。

としている。
日本国民になれるかなれないかは、基本的人権の保障を左右する根本的なファクターである。平たく言えば、選挙権がもらえるかどうかとか社会福祉をどれくらい受けれるかとか、そういう権利を国家に請求できるようになるか、などの点から見てとても重要な法律なのである。

重要なのはわかったけど、国籍法の何が問題なの?

そのような国籍法に違憲判決が下されたのはなぜで、どんなところが問題だったのだろうか。まずは、事件の概要に触れてみよう。

原告(訴えた側)は、結婚していないフィリピン国籍の母と日本国籍の父との間に出生した子供たちである。彼や彼女たちは、出生後に日本人の父親から認知を受けたことを理由に、法務大臣宛に国籍取得届を提出した。しかし、国籍法3条1項の条件を充たさないとして、国籍取得は認められなかった。そこで、国籍法3条1項は、憲法14条にいう「平等」に反するとして日本国籍を有することの確認を求める訴えを提起した。
一審の東京地裁は、国籍法3条1項の準正要件を定める部分のみを違憲とする判決を出し、国側が控訴。二審の東京高裁では、国籍取得の要件を定めるのは立法府の権限であるとした上で憲法判断には踏み込まず、原告敗訴。そして上告審たる最高裁は平成20年6月4日、原審である東京高裁の判断を破棄し、違憲判決を示した。

国籍法3条はなぜまずかったの?準正要件とかよくわかんないんだけど…

国籍法3条1項は、

第三条 (準正による国籍の取得)
父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で二十歳未満のもの(日本国民であつた者を除く。)は、認知をした父又は母が子の出生の時に日本国民であつた場合において、その父又は母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であつたときは、法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。

と規定しているが、ここが少しわかりにくいと思うので、国籍法の構造を分解して図示しながら解説をしてみよう。
日本の国籍法は血統主義を採用している*1。その原則が読み取れるのが国籍法2条1項および2項である。

第二条 (出生による国籍の取得)
子は、次の場合には、日本国民とする。
一 出生の時に父又は母が日本国民であるとき。
二 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であつたとき。
三 日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき。

だから、両親の国籍を類別して図解してみよう。

両親が日本国民である場合

まず、両親が日本国民である場合、子どもは日本国籍を取得できる。シンプルな帰結である。


母が日本国民で父が外国人である場合

また、母が日本国民で父が外国人である場合、婚姻関係にある夫婦の子(これを嫡出子という)であっても非嫡出子(民法772条1項による嫡出推定が及ばない子)であっても、日本国籍を取得できることになる。何故なら、「出生の時に…母が日本国民であるとき」は出生によって日本国民となれるからである。


父が日本国民で母が外国人である場合

複雑になるのは、父が日本国民で母が外国人のケースである。このとき、二人が結婚していて嫡出子であるならば、子は日本国籍が取得できる。婚姻関係にある男女から生まれた子は、(たとえ遺伝上の事実とは異なっていても)法律上の親子関係が推定されるから*2、「出生の時に父…が日本国民であるとき」という要件を充たすことができる。



非嫡出子である場合、子が胎児のうちに認知されたときもまた、日本国籍取得が可能である。なぜなら、胎児のうちに認知すれば、父と子の間に法律上の親子関係が発生して「出生の時に父…が日本国民であるとき」という要件を充たすようになるからである。



では、出生後に認知された場合はどうなるのだろうか。
生後認知され、さらに両親が婚姻すれば*3、これも子は日本国民として認められる。これが国籍法3条1項の「準正による国籍の取得」である。



しかし、生後認知されたのみでは日本国籍が取得できない。これが今回の問題である。



以上をひとつの図としてまとめると、以下のようになる。



そして、最高裁の多数意見は、出生した後に父から認知された子につき、父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した子(準正子)のみ日本国籍を認めていることは、憲法14条1項に反するとして違憲判決を下し、「父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得」せずとも国籍法3条1項が規律する他の要件を充たせば、日本国籍が取得できるとした。
上の図でいえば、生後認知された準正子(左から二番目の子)と生後認知のみされた非嫡出子(一番右の子)の間にある「区別」は不合理な差別だという判断を示したのである。


以上は、国籍法3条1項が違憲と判示されたことについての概説だったが、この最高裁の判決は多数意見のなかでも補足意見が多く述べられ、さらに少数意見と多数意見がお互いを批判し合う形になっていて、とても興味深い。法令違憲という重大な判断を示すにあたって、かなり喧々諤々の議論がなされたことが伺える。
面白いだけでなく、なぜ今回の国籍法改正に賛成なのか、あるいは反対なのかを述べるときにとても参考になると思うので、次回は各裁判官の意見をまとめていきたいと思う。




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【追記】
このエントリー中の図はクリエイティブコモンズ・ライセンスのby-nc(表示-非営利)で提供しています。クレジット(今回であれば「inflorescencia」という著作者名)が入っていて、なおかつお金を取らないなら、どなたでも(この問題についてどのような立場をとっていても)、勝手にコピーしたり手を加えたりしても良いということにしています。
なお、上記のことをライセンスしたからといって、フェアユースなどあなたの権利が影響を受けることはまったくありません。引用や私的な使用のための複製などもご自由にしていただけます。教育目的の利用なども歓迎します。詳しくは利用許諾条項をお読みください。

画像はinflorescencia's fotolife国籍法フォルダからダウンロード可能です。ご活用頂ければ幸いです。

*1:これに対して、生地主義を採用する国々も多くある。生地主義は「自国で生まれた子は自国民」という立場のことである。ただし、生地主義であっても無制限に国籍を与えるという国は少ない点に注意

*2:民法772条

*3:民法789条1項の婚姻準正

「リアル入門」の脚注

保護利用小委法制問題小委知財制度専門調査会などパブコメの締切が迫っているのですが、まだ資料を読み込めてない今日この頃*1
でも、文学フリマも迫っているので『筑波批評2008秋』に寄稿した「リアル入門」の脚注部分を公開しておきたいと思います。以下の脚注は、本来であれば紙上に掲載すべきものだったのですが、紙幅の関係上割愛したものです*2。本文を入手していない方には、内容を推測するヒントになるかも。


MIAU
Movements for Internet Active Usersの略称。まいうではなくみゃうと読む。日本語の団体名称は「インターネット先進ユーザーの会」。2007年10月に任意団体として、津田大介小寺信良白田秀彰ら11人によって設立。 2008年6月25日付で法人格を取得し、無限責任中間法人となる。技術発展や利用者の利便性に関わる分野における意見の表明、政策提言、知識の普及などの活動を行うことを目的としており、利用者がより創造的に活動でき、技術自身が発展できるような環境、そして既存のシステムを守るための制度が技術の発展を制限しない環境作りを目指す。2007年は「ダウンロード違法化」問題や、コピーワンス及びダビング10著作権保護期間延長問題等を主として扱っていたが、2008年からはインターネット上の言論・表現の自由に関わる問題へ活動範囲を拡大。日本ユニセフ協会が主催する「なくそう! 子どもポルノキャンペーン」の活動趣旨に対して公開質問状を提出したり、「青少年ネット規制法」への反対声明をWIDEプロジェクトなどの団体・個人と共同で公表した。その際「規制より先に教育」と提言したことから、インターネット・リテラシーに関する教科書作成などの活動も現在行っている。 http://miau.jp/
身代わり山羊
後述する「羊狩り」からすれば、山羊より羊とした方が整合性が取れるかもしれないが、ここではスケープゴートを想起してもらいたいために使っている。
ブルース・シュナイアー
Bruce Schneierは、暗号とコンピュータ・セキュリティの専門家。アルファブロガーと呼ばれると嫌がるyomoyomo氏に言わせると、セキュリティ分野の伝説的人物である。近著『セキュリティはなぜやぶられたのか(原題 Beyond Fear: Thinking Sensibly About Security in an Uncertain World)』においては、コンピュータやインターネットに留まらず、社会全般におけるセキュリティに言及している。おそらく911後の混乱と過剰を念頭において執筆されたであろう前掲書は3部構成になっており、第一部(Sensible Security)ではセキュリティがトレード・オフであることを解いている。すなわち何を失いたくないのか、どんなリスクなら許せるか、どのようなコストをかけて対策するか、対策をトレード・オフのバランスとして評価することなどについて書かれている(と思う)。第二部(How Security Works)および第三部(The Game of Security)は各論と実践応用編である。本書は例が多く、基本的には同じテーゼが繰り返されているとも言えるが、それだけセキュリティというものが個別具体的で安易なものではないということだろう。なお、シュナイアーの定義する「リスク」は少々独特なので注意が必要である。 http://www.schneier.com/blog/
「セキュリティ芝居」
security theaterは、Beyond Fearにおける用語。少し引用すると、"It's important to understand security theater for what it is, but not to minimize its value. Security theater scares off stupid attackers and those who just don't want to take the risk. And while organizations can use it as a cheaper alternative to real security, it can also provide substantial non-security benefits to players."(P.39)要するに、対策をしたという安心感を提供するための見世物としてのセキュリティ対策で、実際にセキュリティを向上させるようなことをほとんど何もしていないことを指している。手段が目的化しているため、逆に何らかの脆弱性を孕むことが多い。例えば、こんにゃくゼリーをめぐる言説と対応などを想起してもらいたい。
「狼を狩れないから羊を狩ろうというのは間違っている」
詳細は以前のエントリを参照のこと。 http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20080123/1201076062
ダウンロード違法化問題
違法複製物または違法配信からの録音録画の取り扱いを著作権法著作権法第30条の範囲外とする改正の通称。2008年10月に文化審議会著作権分科会の私的録音録画小委員会において当該方針が改めて確認された。所管官庁である文化庁は報告書案をまとめるが、それを受ける形で通例では、次期通常国会著作権法改正案が提出される。私的録音録画小委員会委員でもある津田大介氏のVIP降臨まとめである「ダウンロード違法化がほぼ決まったけど何か質問ある?」も参照のこと。 http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-1548.html
ニコニコ動画でも話題になっていた
「【再生60万で】 ダウンロード違法化 絶対阻止 【 ハルヒ虎 】」のことを指す。 http://www.nicovideo.jp/watch/sm2312113
反対運動
2007年秋、MIAUはダウンロード違法化問題に反対を表明。自ら文化庁に意見提出を行う他、パブリックコメント提出促進運動を展開。パブリックコメントの提出方法指導を行い、テンプレート素材集を公開し、さらに発起人の一人がパブコメジェネレータを提供。結果として、パブリックコメントが約7500件寄せられ、そのうち6000通がダウンロード違法化反対の意見だったという結果を示す。この総数について文化庁著作物流通推進室長は「これまでにないほど多」いと述べている。この手法に対しては賛否両方の意見が寄せられ、後にNHKクローズアップ現代『コピペ〜「ネットの知」とどう向き合うか〜』でも取り上げられるなど波紋を呼ぶ。しかし、4200通がテンプレートを利用したものだったとはいえ、逆にいえば非テンプレートの反対意見が1800通で賛成のパブリックコメント(1500通)より多かったとも言える。また、ジェネレータの開発は出力される文章やソースコードも含めて公開され、開発や編集が可能とされており、手続きの透明性と参入機会は確保されていた。さらに付言すれば、2004年のレコード輸入権問題に際して文化庁から公開されたのが賛否の数のみであり(反対意見を賛成意見として分類された者もいたようである)、レコード輸入権導入賛成派に組織票と思しきものが多く見られた事情もあり、全く同じ文書でも別としてカウントされていた。こうした文化庁の運用に当時批判が集まり、不信感を残す結果となった。MIAUパブコメ推進運動やパブコメジェネレータ作成が「煽動している」との批判がありつつも、一定の賛意を得られたのはこうした事情があったためだと考えられる。
ダウンロード違法化とは別の例
財団法人日本ユニセフ協会による「なくそう!こどもポルノ」キャンペーンのうち、準児童ポルノ禁止の提言に対して、MIAUは、子どもを性的虐待から守り性的商業的搾取被害を防止するという目的に反対するものではないととしつつ、公開質問状を送付した。照会事項は準児童ポルノに関して、表現の自由に対する規制と子どもの性的商業的搾取被害防止について考察するための基礎情報を収集し、提案されている施策について統計学社会心理学法律学等社会科学的見地からインターネットユーザーに議論の基礎資料を提供しようとするものであったとされる。
カリフォルニア・イデオロギー
60年代から70年代にかけて主としてアメリカ西海岸の若年者層・技術者層によって共有されていたと言われる技術至上主義にして自由主義。しばしばcyber libertarianismとも同視される。当時は情報技術を大いに評価する楽天的傾向が見られ、来るべき情報化社会がユートピアであると本気で信じられており国家の介入や規制を毛嫌いしていたが、このような状況を皮肉交じりに指した言葉。東浩紀による「情報自由論」第5回では、ハッカーの倫理と文化の一部として紹介されている。 http://www.hajou.org/infoliberalism/5.html
政策や法律によって敷かれる場合は、国として時間と空間における一貫性が求められる
ised@glocom設計研第2回「オープンソースの構造と力」の共同討議第1部における楠正憲の指摘を受けている。楠は「ソフトウェアは非競合的で、制度設計は競合的」であるとした上で、「ソフトウェアは本質的に多様性を実現しやすいけれども、法の世界では社会全体を時間的にも空間的にも一貫性を貫くことが重要になる」と述べた。そして多様性と取替可能性、プロセスの正統性などの点について比較し、「ソフトウェア設計と制度設計のあいだには大きなギャップがあり、前者の議論をそのまま後者に敷衍できるかというと非常に難しい」としている。 http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/04050212
規律訓練型権力
ミッシェル・フーコーが指摘した「規律訓練」を通じた規範の内面化による権力モデル。ここでは、後述する環境管理型権力と対比的に使われている。isedのキーワードも参照のこと。 http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/keyword/%E8%A6%8F%E5%BE%8B%E8%A8%93%E7%B7%B4
環境管理型権力
ローレンス・レッシグの4規制力モデルにおける「アーキテクチャ」を参照しつつ、東浩紀が再構成した概念。規範の内面化を必要としない、システムによる管理を指向する権力のことを指す。宮台信司は同様の状況をGood Feel Societyとしてまとめている。Good Feel Society またはテクノロジーのスマート化とは、端的に言えばディズニーランド的なソーシャル・デザインで、インフラを地下に埋め込むように負荷を不可視化することを指す。つまり意識せざるシステムを利用することによって脱スイッチ化、シームレス化し(システム側から見ると人々をインテリジェント化することによって)、人々が快適さを求めるベクトルと人々を社会的に振舞わせるベクトルを一致させることができるというもの。宮台はさらに、善意と自発性優位からマニュアル優位へ、 匿名性から記名性へ、人格的信頼(履歴に対する参照)からシステム信頼へ、入れ替え不可能性から入れ替え可能性へ、低流動性から高流動性へ移行し、むき出しの暴力が見えない社会となるだろうと述べている。社会統制ではなく人々が自己決定的に振舞った結果として制御するというモデルは、言葉こそ違うものの、東の言う「環境管理型」または「動物管理」に近い。なお、isedのキーワードも参照のこと。 http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/keyword/%E7%92%B0%E5%A2%83%E7%AE%A1%E7%90%86%E5%9E%8B%E6%A8%A9%E5%8A%9B
グーグル・ストリートビューをめぐる対立
グーグル・ストリートビューは、Googleが提供するサービスであり、同社が運営する地図「Googleマップ」上に地上から見た道路の風景写真を表示する機能のこと。便利で革新的なサービスであると評価されることもあるが、肖像権、プライバシー、セキュリティといった点で懸念事項が多く指摘されてきた。 MIAUはこの件について「Google ストリートビュー"問題"を考える」と題するシンポジウムを開催した。 http://miau.jp/1219397839.phtml
その限界について少し過去を振り返ってみよう
詳細は以前のエントリを参照のこと。 http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20071220/1198091203
「通信傍受法と想像力の問題」
東浩紀が著した論考。『世界』第668号(1999年)初出。『郵便的不安たち# (朝日文庫)』(PP184〜196)に掲載。
ソルジェニーツィンの限界あるいはホールデンに対する草薙素子の苛立ち
東浩紀が「ソルジェニーツィン試論」において「ソルジェニーツィンはそのような『政治的』文脈を考えていない。彼は、つねに根源的に語っている。しかし、自分の発言が根源的に読まれないということに対して、彼は鈍感である。というより、根源的に読まれないなどとは、考えてもいないと言ったほうがいい」と指摘したことを念頭に置いている…と書いていて思ったのだけど、ソルジェニーツィンの「失望」の方が暗喩として適切だったかも。草薙素子は『攻殻機動隊』に登場する架空の人物であり、ここで言う「苛立ち」とは、アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』における「社会や現状に不満があるなら自分を変えろ。それが出来ないなら目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んで孤独に生きろ。それも出来ないなら…」という草薙素子の台詞のことを指す。ホールデンは、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公の名前。前掲書では "I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes. That way I wouldn't have to have any goddam stupid useless conversations with anybody. If anybody wanted to tell me something, they'd have to write it on a piece of paper and shove it over to me. They'd get bored as hell doing that after a while, and then I'd be through with having conversations for the rest of my life. Everybody'd think I was just a poor deaf-mute bastard and they'd leave me alone." と言う部分がある。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』は『ライ麦畑でつかまえて』からの引用を各所にちりばめており(例:I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes...or should I? )、上述の台詞もその一端である。しかし、原書にはない「...or should I?」がアニメには付け加えられているのは、社会に対して自分がコミットするか否かという逡巡だろう。余談だが、サリンジャー自身は後年本当に隠遁して引きこもってしまったらしいことを彼の娘のエッセイで知ったのだが、妻であり母だったであろう女性が聾唖者だったかは定かでない。
「『ニコニコ現実』のプロトタイプとしての『ニコニコ大会議2008』」という記事
濱野智史の個人ウェブサイト@hatenaにおける当該記事の「むしろここで考えておきたいのは、「ネットなんて早くなくなってしまえ」といくら言い放ったところで、それは決してなくなることはないだろう、ということです(もちろん津田さんも、そのことは承知でおっしゃられていると思うので、これはあくまで修辞的なツッコミです)。むしろ、「「それがネットの面白さだから」で済ませられ」てしまうからこそ、ますますそのようなコミュニケーションシステムは人々に欲望され、いつまでも生き残ってしまう。もちろん、それこそ何らかの法的・政治的権力の介入を通じて、そのシステムの息の根がたたれることはあるかもしれませんが、一度植えつけられてしまった人々の欲望まで完全に抹消することはできない。だから僕には、いいか悪いかの判断は別として、もうそれは避けることができないと思っています」という部分を指している。 http://d.hatena.ne.jp/shamano/20080706/1215340247
青少年ネット規制
素案に関する詳細は以前のエントリを参照のこと。ただし、成立した法律は素案とは別のものである点に注意。 http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20080404/1207266695
違法情報
ローレンス・レッシグ
アーキテクチャ
コンスタティブ
パフォーマティブ
誤配

(以上、順次加筆予定)

*1:締切間近の知的財産・著作権まわりのパブリックコメントについては、http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/42184/42673348のまとめを参照のこと

*2:本文だけで上限の字数を超えていた。筑波批評社座談会の字数制限を苦しくした一因は私にあります。ごめんなさい

『筑波批評2008秋』に寄稿しました

筑波批評社の同人誌『筑波批評』の最新号で拙稿「リアル入門――ネットと現実の臨界」が掲載されます。最新号では、シノハラさん(id:sakstyle)と塚田さん(id:Muichkine)の論考はもちろんのこと、筑波批評社全体の座談会もあります。また、私以外にも筑波批評社外の人が寄稿したりインタビューされりしています。


筑波批評2008秋号は、東浩紀のゼロアカ道場の評価対象でもあります。つまり、11月9日に開催される第7回文学フリマで、2人1組で制作した評論同人誌を販売することが課されており、今までの関門を勝ち抜いてきた「道場門下生」の他に「道場破り」と呼ばれる参加方法も認められているのですが、筑波批評社の二人は、後者の「道場破り」にあたるというわけです。


さて、少しだけ自分語りを許してもらえれば、依頼主であるsakstyleさんを知ったのはあるシンポジウムのエントリを介してでした。その後しばらくはsakstyleさんのことを失念していましたが(失礼)、学問バトンをもらった縁で2007年秋に筑波大学の学園祭へ出向き、「筑波クラスタ」としか言いようのない不思議なコミュニティとの交流を持つようになりました。

sakstyleとMuichkineを含む筑波の愉快な仲間たちのほとんどは私と同い年(85年生まれ)であり、年上の人たちと接することがどういうわけか多い私にとって「タチコマみたい」とも言われている同属集団は正直羨ましい存在で、原稿依頼があったときはちょっと嬉しく思いました。


ところで、当初提示されたテーマは掲載原稿とは違っていて、tumblr無断転載問題や、ニコニコモンズなどについて書いてほしいという依頼でした。
しかし、私はそこで疑問に思いました。道場破りの二人が扱うテーマは、フィクション論、物語構造論、キャラ同一性論であることが発表されていたので、著作権などの問題との整合性や関連性がどうも見えてこなかったのです。

そこのところを聞いてみると、今回の『筑波批評』では東浩紀ならびにゼロアカの問い直しをしたいのだ、という返事をもらいました。彼らは、ギャルゲ・ラノベ・同人評論・オタク文化論・ロスジェネ論といった特定領域に終始している現状を懐疑し、かつて東浩紀が萌芽的に描写していた広範な論題について、再発見し再定義したいという野心に満ちた展望を有していたのです。


この返事を見て、私は筑波批評をがっつり応援しようと決めました。「批評」と「現状」に対して批判的スタンスをとるという初歩的でまっとうにして難しい立場を取ろうとしているからです。

ゼロアカが無視してきたもの。
ゼロアカが育て損ねてきたもの。
ゼロアカが見過ごしてきたもの。
この『筑波批評』で取り上げられている数々の言説は、ゼロアカという空間がその周辺においやってきたものである。
我々はそれらに光を当て、一人の巨人の力によって歪められた言説空間を、より多様で広いものにしなければならない。
ゼロ年代のアカデミズムを、批評によって本来の姿へ戻す。
それが、我々が今この時代に言葉を紡ぎ批評することの意味であり、価値であるのだ。


筑波批評』扉ページより引用

出来上がった『筑波批評』は一読する限り、荒削りで未完成で不十分で一貫性がないように感じられるかもしれません。しかし全体として見ると、今まで何が語られてきて何が語られてこなかったのかが、一部ではあるでしょうが、浮き彫りになると思います。そしてそのような逆照射を狙って執筆してみました。

郵便論が、波状言論が、isedが、あるいは情報自由論が持っていた「もうひとつの可能性」を筑波批評のなかに見出してもらえれば幸いです。この試みがうまくいっているかどうかを確かめてみてください。



「第七回文学フリマ


筑波批評社は、2階のB-62。『筑波批評2008秋』は定価500円です。